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これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --
第一章 信じ難い現実
どれが本当の指導なんだ
( 池田会長指導の激しい変転 )
(略)最近の池田会長や創価学会の指導には、このように御聖旨に違背する内容が非常に多いのである。それなのに私達一般の創価学会員は、そのことに全然気づかず疑問のひとかけらも抱かずに、ただ唯唯諾諾、池田会長の指導だから、幹部の指導だからと、頭から信じてきてしまった。
日蓮大聖人を信じ奉っているのか、池田会長を信仰しているのか、わけのわからない状態だといえるのではないだろうか。
これでは、“日蓮正宗ではなく池田宗だ”と悪口をいわれても、反論もできないではないか。日蓮大聖人の御金言に悖るような指導があっても、池田会長の指導というだけで“大拍手”で迎え従っていた私達創価学会員の、大御本尊様に対する罪は免れようのないものであろう。
それにつけても私達創価学会員は、池田会長や創価学会の指導が、どんなに激しく変転しているかを、まず知らなければならない。多くの人に指摘されていることだが、「本門事の戒壇」という日蓮正宗教義の重要事項と「正本堂」に関する池田会長と創価学会の指導が、いかにクルクル変化しているかを見てみよう。
1) 「立宗ここに七百三年を過ぎ、仏命たる富士大石寺に本門寺の戒壇の建立は未だならず『時を待つべきのみ、事の戒法というは是れなり』の御予言こそ残された唯一の大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宜流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(「大白蓮華」昭和31年1月号、池田会長−当時総務)
2) 「本門の戒壇建立とは、大聖人様の至上命令である。そしてわが日蓮正宗創価学会の唯一の目的であることは論をまたない。この戒壇こそ末法万年にわたり、民衆を救済するものであると思う。したがって国立の戒壇建立は、全民衆の要望によって成就されるものであることを忘れてはならない」(「大白蓮華」 昭和34年1月号 同上)
3)「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべきどうしても通らなければならないのが、創価学会の選挙なのでございます」 (「大白蓮華」 昭和34年6月号 同上)
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
下山正行氏の、「これでは、“日蓮正宗ではなく池田宗だ”と悪口をいわれても、反論もできないではないか」との自己反省は、けっして他人事でも過去のことでもないことでした。
どこの「会長先生」であっても「御法主上人猊下」であっても、その絶対視や神格化がいかなる隘路に陥るかということを、わたしたちはこの数十年、イヤと言うほど見てきたことでした。
「鯛は頭から腐」り、「絶対権力は絶対的に腐敗」するのでありました。
(
平成十四年五月十三日、櫻川
記 )
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