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法律専門家による非法律的俗論の横行 ---「聖教新開」の弁解
被告側の反証退けた判決
しかも、これにたいし被告北条氏らの側はこの立証をくつがえそうと反証をいろいろとおこなったのである。
たとえば、本件の発覚後に山崎被告が故北条氏のもとに報告にいったこと自体には争いがない。がその理由については対立した。
原告側は山崎被告が本人尋問でのべた「報告にいったのは、電話盗聴を承認し、資金を提供した北条にたいし、盗聴器の撤去と盗聴の終了を報告するため」というのが事実であると、主張、立証した。
これにたいして被告北条側は「その報告は独断で実行した山崎の自己保身のためであった」と反証したのである。この反証に被告側が成功すれば、原告側の立証はその限度で揺らぐことになる。
しかしその反証がなんらかの理由で信用できないとすれば、裁判所が、すでに立証された要証事実をそのまま認定するのは当然のことである。
その場合、裁判所は、反証事実が絶対にありえないことまで認定する必要はない。合理的な推論によって信用できないことを判示すればたりるのである。
さきの例でいえば、判決は、故北条氏が本件盗聴の発覚後はじめてこのことをきいたのだとすれば
「被告山崎が学会員である以上、これが発覚した場合には、前記三(注、言論出版妨害問題及び学会、公明党と共産党の対応)で認定した政治的、社会的背景のもとにおいては、学会及び公明党にとっても極めて危険な状態にあったのであるからその様な危険な行為をした被告山崎に対し、事後処理を一任することなどおよそ考えられないことであるし、これが発覚した場合に備えて、北条又は学会として関係者から詳しい事情をきくなどの調査をしないというのもあまりに不自然である」と推論し、被告側の反証をしりぞけているのである。
したがって正しい判決批判をしようとするなら、このような訴訟の構造の上で「推論」がおこなわれていることを指摘するだけではなんの意味もない。その推論に合理性が欠けることを具体的にいわなければならない。
しかし、裁判所の右のような判決での推論が誰をもうなずかせるものであることは明らかであろう。ところが、これを批判する聖教新聞紙上の議論には、推論の非合理性をいうものがじつはひとつもないのである。非法律家的俗論の横行というゆえんである。
( 「赤旗」、一九八五年五月三日
)
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
こうした、法律専門家による<黒を白>といいくるめる「非法律的俗論」の横行、現職の弁護士・検事による卑劣な盗聴犯罪の実行、これらは末端の一部の会員のちょっとした行き過ぎなどではないところに、この宗教教団の深い<反社会性>がみてとれることでした。
そして、創価学会は積極的に会員の子弟を法曹界に送り続け、いまや池田名誉会長を師と崇める判事・検事も数多いことでした。
法曹界だけでなく、政界もまたしかり。言論弾圧問題で池田会長の国会証人喚問の機運が迫ったとき、その阻止のために衆参両院の七十人近い国会議員が総動員され各党の懐柔を命じられたことは、その渦中にあった藤原氏の証言によって知られます。
官界においても、また。今、外交機密費の不正使用や横領等、そのあまりの腐敗・杜撰が明らかになった外務省にも、外遊機会の多い池田名誉会長に多大の便宜をはかる池田崇拝者がいることは、知られています。
もちろん人がどのような宗教を信じ・どのような職業に就こうと、それは本人の自由であって他人がとやかくいうことではありませんが、問題は職業倫理にもとる行為や悪質な犯罪までをも、教団を護るためには社会的地位や知識や立場を利用して易々とやってのけてしまう、その「反社会的エートス」にあることでした。
(
平成十四年一月十六日、櫻川 記 )
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