「日蓮誕生」(江間浩人著) は、これまで見過ごされてきた、"新たな視点"を数多く提示している。今回は、"四条頼基" について見てみよう。 四条中務三郎左衛門尉頼基は官位が左衛門尉であり、その唐名(金吾校尉)を以て四条金吾とも呼ばれる。 頼基の主君・名越(江馬)氏は北条一門の名家で、初代・北条朝時は、北条義時(二代執権)の次子であり、北条泰時(三代執権)の弟である。 承久の乱では、泰時が東海道の総大将として出陣し、朝時は北陸道の総大将となっている。ちなみに、名越は鎌倉の地名・江馬は伊豆の地名であり、朝時の家はその地名を以て "名越氏"・"江馬氏" とも呼ばれる。 朝時の長子が江馬光時であり、頼基の主君である。光時は、四代将軍・頼経の近習筆頭として寵遇を蒙り、江馬氏は代々将軍家の近臣として仕えている。四条頼基は光時の隠居後、その家督を継いだ親時に仕えた。(「誕生」p69) 頼経の将軍引退に際し、光時は得宗家に不満をもつ有力御家人の三浦氏・千葉氏と共に前将軍・頼経を立てクーデターを企てた。しかし事前に発覚するところとなり、光時は伊豆の江馬に流されたが、後に赦されて鎌倉に戻った。頼経は京へ帰され、三浦氏・千葉氏は滅ぼされた。 大聖人が四条頼基に代わって、政所に提出する"陳状"(「頼基陳状」 建治三年六月 北山本門寺 )を認めた際、「又ほかのやつばらをもあまねくさはがせて、さしいだしたらば、若しや此の文かまくら内に奴原もひろうし、上へもまいる事もやあるらん」(「四条金吾殿御返事」 建治三年七月 常妙寺)と、陳状を鎌倉に流布した上で政所に提出すれば、「上」の耳に届くこともあるだろうと、頼基に告げている。 この「上」とは、誰を指すのか?。従来は北条時宗、あるいは安達泰盛などと解釈されて来たが、「日蓮誕生」の著者はそれをきっぱり否定する。(「誕生」p78) 大聖人は時宗を「相模守」「守殿」と呼び、泰盛 (秋田城介)は「城殿」である。 頼基の主君である江馬殿に対しては、「主のめさん時はひるならばいそぎいそぎまいらせ給ふべし」(「四条金吾釈迦仏供養事」 建治二年七月 身延曾存)、「たとひ所領をめさるゝなりとも、今年はきみをはなれまゐらせ候べからず」(「四条金吾殿御書」 建治二年九月)と、「主」あるいは「君」とする。 それでは「上」とは誰か、主君の江馬殿ではない。 「二所の所領をすてゝ、法華経を信じとをすべしと御起請候ひし」(「四条金吾殿御返事」 建治三年七月)と、所領を捨てようとする頼基に対し、大聖人は「我とは御内を出でて、所領をあぐべからず。上よりめされいださむは法華経の御布施、幸ひと思ふべし」(同前)と述べ、自分から所領返上などしてはいけない、「上」に没収されるならそれは"法華経への御布施"と思え、と諭している。 所領の安堵も没収も、それはそもそも将軍家の役割である。(「誕生」p79) 「えまの四郎殿の御出仕に御とものさぶらひ(侍)二十四五、其の中にしうはさてをきたてまつりぬ。ぬしのせいといひ、かを・たましひ・むま・下人までも、中務のさえもんのじゃう第一なり。あはれ(天晴)をとこ やをとこやと、かまくらわらはべ(鎌倉童)はつじぢ(辻路)にて申しあひて候ひし」(「四条金吾殿御書」 建治四年一月)と。 ここで「えまの四郎殿」とは将軍の近臣である江間親時、「御出仕」とは御所への出仕である。「御とも」とは四条頼基も同輩らと共に、江間殿に同行し御所に参じていた。 大聖人の筆には「分々に随って主君を重んぜざるは候はず。上の御ため現世後生あしくわたらせ給ふべき事を秘かにも承りて候はむに、..(略).. 頼基は父子二代命を君にまいらせたる事顕然なり」(「頼基陳状」 建治三年六月 日興筆北山本門寺 )、 「所領の間の御事は、上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候ひ畢んぬ。此の事は御文なきさきにすい(推)して候。上には最大事とをぼしめされて候へども、御きんず(近習)の人々のざんそう(讒奏)にて、あまりに所領をきらい、上をかろしめたてまつり候ぢうあう(縦横)の人こそをゝ(多)く候に ..(略).. うらみまいらせ給ふべき主にはあらず」(「四条金吾殿御返事」 建治三年四月 身延曾存)と、「上」と「主」の明確な使い分けが見られる。 さらに、「出仕より主の御ともして御かへりの時は、..(略).. 上のをゝせなりとも、よ(夜)に入り て御ともして御所にひさしかるべからず」(「四条金吾殿御書」建治四年一月 真蹟なし)と。 頼基は「主の御とも」して、(上の)御所に出仕していた。そして、たとえ「上」の申し付けであっても(主の)「御とも」して、夜更けまで御所に長居してはいけないと、「上」と「主」の違いは明々白々である。 「さてはなによりも上の御いたはり(所労)なげき入って候。..(略).. されば御内の人々には天魔ついて、..(略).. 此の病はをこれるか。上は我がかたきとはをぼさねども、一たんかれらが申す事を用ひ給ひぬるによりて、御しょらう(所労)の大事になりてながしら(長引)せ給ふか。..(略).. 若しきうだち(公達)、きり(権)者の女房たちいかに上の御そらう(所労)とは問ひ申されば、いかなる人にても候へ、膝をかゞめて手を合はせ、某が力の及ぶべき御所労には候はず候」(「崇峻天皇御書」建治三年九月 身延曾存)と。 「上の御いたはり」「上の御そらう」の「上」とは、もちろん主の江間殿であるはずがない、「上」すなわち将軍が病を得たのである。これまで間抜けたことに、 "上の病" とは "主の病" のことだと軽率に解釈されて来たし、小生は顕正会でそう教わって来た。しかし、病を得たのが江間殿なら「きうだち」や「きり者の女房」が、そこに登場すべくもない。顕正会も日蓮門下も、一同に思い込みにとらわれて御書を読み違がえ、かくも重大な "史実" に今まで気付かずに来た !!。 頼基は、主の供として御所に出仕し「大事の御所労を…たすけまいらせ」と、上の病の治療をも仕っていたのである。(「誕生」p80) 「此の所領は上より給ひたるにはあらず、大事の御所労を法華経の薬をもってたすけまいらせて給びて候所領なれば、召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ。爾時は頼基に御たいじゃう(怠状)候とも用ひまいらせ候まじく候」(「四条金吾殿御返事」 建治三年七月)と。 もし上が再び頼基の所領を没収するなら、病がぶり返すことにもなるでしょう。その時は詫び状を出されても、左遷された頼基は上の治療に伺うことができませんぞ、と云うのである。 弘安元年には「日蓮が下痢(くだりはら)去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々 に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じ」(「中務左衛門尉殿御返事」弘安元年六月 立本寺)、 「身に当たりて所労大事になりて候ひつるを、かたがたの御薬と申し、小袖、彼のしなじなの御治法にやうやう(漸) 験(しるし)候ひて、今所労平癒し本よ りもいさぎよくなりて候」(「四条金吾殿御返事」弘安元年閏十月)と、頼基は大聖人の重い病を投薬を以て癒やしている。 大聖人の周辺には、将軍家に近い人が数多く存在する。江馬光時・親時も、四条頼基もそうである。そうした視点であらためて御書を読み返してみれば、これまでと違った歴史的な "鎌倉の光景" が、また立ち現れて来るだろう。( 令和5年5月25日 櫻川記 )