顕正会の崩壊は近い


浅井会長の実現不可能な「誇大妄想」を直視しよう!
 

 

      種々御振舞御書の「上」(かみ)


 「日蓮誕生」(江間浩人著) は、見過ごされてきた "新たな視点" を、数多く提示している。今回は、"種々御振舞御書" に多用される「上」(かみ)について見てみよう。(「誕生」p75)

 重要な「種々御振舞御書」( 建治二年 身延曾存 )を給わったのは、安房の光日尼である。幼少の頃の大聖人をよく知っている、きわめて近しい間柄にある尼御前であった。(「誕生」p36 )
 さて、種々御振舞御書の中に「上」が出てくるのは、以下の7箇所である。

「其の年の末十月に十一通の状をかきてかたがたへをどろかし申す。..(略).. 或は使ひを悪口し、或はあざむき、或はとりも入れず、或は返事もなし、或は返事をなせども上(かみ)へも申さず。これひとへにたゞ事にはあらず」
 これまで、「上(かみ)へも申さず」を、"執権に取り次がない" とする解釈がほとんどであったが、そもそも "十一通申状" は執権にも出されている( 北条時宗への御状 )ことを忘失している。(「誕生」p77 )

まつり(政)事をなさん人々は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし。いわう(況)やこの事は上(かみ)の御大事いできたらむのみならず、各々の身にあたりて、をほい(大)なるなげき出来すべき事ぞかし」
 この「まつり(政)事をなさん人々」が「御評定に僉議あり」(種々御振舞御書)の面々であれば、「取りつぎ申したらん」人は上(かみ)以外にない。評定は幕府の最高政務機関であり、評定の長が執権なのである。(「誕生」p77)

「午(うま)の時計りにえち(依智)と申すところへゆ(行)きつきたりしかば、本間の六郎左衛門がいへ(家)に入りぬ。..(略).. 其の日の戌の時計りに、かまくらより上(かみ)の御使ひとて、たてぶみ(立文)をもって来ぬ」
「六郎左衛門尉の云はく、上(かみ)より殺しまうすまじき副状下りて、あな(蔑)づるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連(しげつら)が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかし」
 本間六郎左衛門が鎌倉より受け取った「上の御使ひの立文」と「上よりの副状」は、将軍家の発給だと「日蓮誕生」の著者は指摘する。(「誕生」p82)
 本貫地を "一所懸命" する御家人の忠誠は、将軍個人にではなく "将軍家"(鎌倉殿)に向けられていた。北条得宗家も、幕府権力を掌握していても御家人の一員に過ぎず、御家人にとっての「上」ではない。将軍家の公務は "御所奉行" が担い、将軍と妻子は側近に "御所御中間" を置いた。「上の立文」と「上の副状」の「上」とは、将軍家を指すとすればよく意味が通る。

「阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向かって大音声(だいおんじょう) を放って上(かみ)を呪咀(じゅそ)し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。武蔵前司殿是をきゝ、上(かみ)へ申すまでもあるまじ、先づ国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろう(牢)に入れよと、私の下知を下す」
「かくの如くして上(かみ)へ此の由を申されければ、案に相違して、去ぬる文永十一年二月十四日御赦免の状、同じき三月八日に島につきぬ」
 この「武蔵前司」とは北条(大仏・おさらぎ)宣時であり、大聖人を陥れるため「虚(そら)御教書」(私の下知)を三度まで出している。その宣時が「上」と呼ぶのは、執権や連署であるはずはなく、まぎれもなく将軍家である。

「平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。一々に経文を引きて申す。平左衛門尉は上(かみ)の御使ひの様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答へて云はく、今年は一定なり」
 大聖人は、幕府機関の評定によって流罪に処せられ、評定の裁定によって赦免された。その赦免の評定におそらく、上(かみ)の意向が働いていた。当時、執権も評定も意に介さぬほど幕府内の実権を握っていた平頼綱 (「天下の棟梁」(一昨日御書) )であるが、「上」の意向を無下にはできない。弾圧の先頭に立って大聖人の頸を刎ねんとした平左衛門尉頼綱が「上の御使ひの様にて」と不本意ながら神妙な態度を取ったのは、"上の申し付け" があったからに他ならない。(「誕生」p93 )

 "種々御振舞御書" に用いられる「上」とは、執権でも連署でも評定でもなく、ただちに "将軍家" であった。「日蓮誕生」著者の指摘は、鋭くそして重い。
 "富士の地下水に達する甚深の教学"と、教団内で尊崇・絶対視されている顕正会・浅井昭衛会長は、当御抄を勝手に「下種本仏成道御書」と改称して用いているが、従来の説を安易に踏襲して「上」を読み違えている。

 将軍家は、幕府のただの "お飾り"、ではなかった。そして、将軍家と日蓮門下の間には、さまざまに近しい接点があった。
 そうした視点で御抄を読み直せば、また違った "鎌倉の光景" が、立ち現れて来るだろう。
( 令和5年6月5日 櫻川記 )