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顕正新聞 平成十三年二月二十五日号
「久遠元初の三宝」末法に御出現
日興上人の僧宝の恩徳 深く拝せよ
日興上人遺誠置文に云く
「一、富士の立義、聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事。」
本日は二祖日興上人が正慶二年二月七日、御歳八十八歳で御入滅あそばされてより六百六十九年の御命日であります。よって只今、御報恩のため、謹んで勤行会を奉修した次第であります。
末法下種の僧宝
日興上人は、御本仏日蓮大聖人の御化導を助け奉るとともに、その下種の大法を末法万年にお伝え下さるために御出現せられた、末法下種の僧宝であられる。
僧宝とは、いかなる御徳がましますかと言えば、仏法を伝えて下さるお徳であります。
御本仏日蓮大聖人の大恩徳は甚深無量、また戒壇の大御本尊の功徳も無量無辺であられる。しかしこの仏法を、もし後世に伝えて下さる御方がなければ、どうして私たちが今こうして、三大秘法を受持することができたでしょうか。
大聖人に多くの弟子ましますといえども、大聖人の仏法の極理がおわかりになったのは、日興上人ただ御一人なのです。他のお弟子は、部分しかわからなかった。ちょうど滝の水を杯で受けるのと同じ。器が小さいので、水がこぼれてしまうのです。
五老僧を見てご覧なさい。大聖人様のお傍(そば)にあってお説法を聴聞するとも、宿縁浅きゆえか、智恵足らざるゆえか、部分しかわからない。滝の水が杯から溢れてしまうのです。
ここに日興上人ただ御一人が、大聖人様の三大秘法のすベてを会得領解せられ、これを末法万年にお伝え下された。よって「末法下種の僧宝」と尊崇し奉るのであります。
久遠元初の三宝 末法にご出現
そもそも、日興上人と大聖人様との縁は、たまたま十三歳のときに大聖人様にお値いしてお弟子になったというような、今生のかりそめの縁ではない。実に久遠元初以来の師弟不二・唯仏与仏のご関係であられる。
ゆえに、久遠元初の自受用身が末法に出現あそばせば、影の身に添うごとくに日興上人もご出現になる。
まさしく末法には、久遠元初の仏と法と僧すなわち三宝が、出現されるのであります。
このことを日寛上人は当流行事抄にこう仰せられている。「久遠元初の仏・法・僧すなわち末法に出現して吾等を利益したもう。若し此の三宝の御力に非ずんば、極悪不善の我等、争か即身成仏を得ん。故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし」と。
このように日寛上人は、久遠元初の三宝が末法に出現すると仰せられている。
しかし、日本人はこれほどの重大事を誰も知らない。このことを寿量品の自我偈には「是諸罪衆生・以悪業因縁・過阿僧祇劫・不聞三寶名」(是の諸々の罪の衆生は、悪業の因縁を以て阿僧祇劫を過ぐれども、三宝の御名を開かず)と説かれている。
久遠元初の三宝この日本国に出現すといえども、日本の人々は悪業の因縁のゆえに三宝の御名をも知らないのです。
しかし私たちは宿縁深厚にして、いま久遠元初の三宝のお姿を、はっきりと見奉ることができる。
すなわち久遠元初の仏宝とは日蓮大聖人、久遠元初の法宝とは戒壇の大御本尊、久遠元初の僧宝とは日興上人にてまします。
ゆえに日興上人は、今生だけのかりそめの縁ではない。実に久遠元初以来、大聖人様に片時も離れず、随従されているのです。だからそのお振舞いは、凡夫のそれとは全く違う。ただごとではないですね。
御本仏と一体
いいですか。日興上人は十三歳にして大聖人様にお値いするや、即座に命かけて大聖人様を師匠と仰ぎまいらせ、以来ただ一筋に仕え奉っておられる。
大聖人が立正安国論を以て諌暁あそばすと、直ちに伊豆流罪の法難が起きた。このとき流罪の地にお供したのは日興上人だけです。
また竜の口の大法難のときにはお傍に侍って、あの不思議の大奇瑞を眼前にし、御本仏の成道を見奉っておられる。佐渡の御流罪のときには骨まで凍る寒さのなか、身を挺して大聖人様を守り奉る。
そして大聖人は佐渡から御還りになり、三度目の諌暁を平左衛門にあそばす。平左衝門は聞き入れなかった。ここにおいて大聖人様は諸天善神に「申しつけ」給い、あの蒙古の治罰があった。これ御本仏たることの証明です。
このとき大聖人様はすでに身延にお入りになり、以来一歩もこの山を御出にならなかった。
それより、日興上人の猛然たる大折伏が展開されたのです。その御心を拝し奉れば「この国に久遠元初の御本仏まします、日本国の一切衆生速かに信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉るべし」というにあられたと拝する。
この身命も惜しまぬ大折伏によって、戒壇の大御本尊の願主となられた熱原の法華講衆も出現された。まさに大聖人の御化導を助け奉ること、かくのごとしです。
一本の直線
そして三大秘法のすべてを大聖人より付嘱され本門弘通の大導師に任ぜられ大聖人の御入滅後五十年間の化導をあそばした。
この五十年間こそ、私たち末法の弟子にとって、鑑(かがみ)であります。この五十年において「日蓮大聖人の弟子はかくのごとく信行すべし」ということを、すべて教えて下さった。
この五十年に引いて下さった一本の直線をそのまま延長すれば、必ず広宣流布は成るのであります。
二十六箇条
だが、正法には必ず魔障がある。正系門家なるがゆえに、広宣流布前夜には、第六天の魔王がこの正系門家を誑かすのです。
そのことをかねてご存知であられるから、日興上人は御入滅の一月前に、二十六箇条の御遺戒を定められた。これは富士門流の憲法です。
その冒頭に、ただいま拝読した「富士の立義、聊も先師の御弘通に違せざる事」の一条があるのです。すなわち“富士大石寺の立義は、日蓮大聖人の御弘通に寸分も相違していない”と仰せられている。言い換えれば、日蓮大聖人の仏法は富士大石寺以外には絶対にない、というご宣言です。
そして広布前夜に魔障があるということを「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と仰せられている。
あり得ないことをどうしてお決めになりましょうか。必ず広布前夜には、このようなことが起こるからこそ、その時の心得を、我々にお示し下されたのであります。
日興上人の仰せのごとく、このことが本当に起きたでしょ。あろうことか国立戒壇の御遺命が、貫首の名において否定され、放棄され、正本堂を御遺命の戒壇とするたばかりが、実際になされたではないか。
そして正本堂の誑惑が破れて宗門・学会の仲間割れが始まるや、阿部管長は無道心にも、なんと身延の坊主どもを四回も大石寺に招いている。
どうしたら、戒壇の大御本尊を誹謗する仏敵と、同座して親しげに話すことができるのか。信心が全く腐っているんです。
同じく二十六箇条には「謗法と同座すベからず、与同罪を恐るべき事」の一条があるではないか。平然とこのお誡めを犯しているのです。
二十六箇条の末文には「此の内一箇条に於ても犯す者は、日興が末流に有るべからず」とある。
これを以て論ずれば、いまの腐敗堕落の坊主どもは、とうてい日興上人の弟子ではない、末流ではないのであります。
亡国の兆 日々に濃し
このように仏法が乱れれば、国も必ずおかしくなる。いま広布の前夜、亡国の前兆はいよいよ顕著になって来た。
その一つが、前々から言っているように日本国の破産です。無責任な政治家によって、溜まりに溜まった国の借金は、隠れ借金まで入れればついに八百兆円。
八百兆円というのがどれほど巨大な金額か、実感がわかないでしょう。一万円札を積んだとして、その高さがなんと、世界最高峰のエベレストの八百倍にもなるのです。このようなとてつもない借金を、政治家どもは無責任にも作ってしまった。
これは時限爆弾です。借金は必ず返さなくてはならないのだから、いつまでもこのまま行くわけがない。返せなければ、必ず破産する以外にはない。
その国家の破産が、最近さまざまな統計が出てはっきりして来たが、このままいけばあと数年以内ですね。もう回避不能のコースに入ってしまったのです。
すでに政府管掌健康保険の積立金が二〇〇二年で底を突くことは、一般新聞にも出ている。しかし国家が税金を投入してくれると思うから、みんなあまり騒がない。ところが、その国家が、とうとう破産しようとしているんです。あと数年で。
しかもその前に、巨大地震が必ず来る。もし巨大地震と国家の破産が相次いで起きたら、日本人はどれほど驚き騒ぐであろうか。
凡夫というのは、その時になってみなければ気がつかない。そしていざ事の始まったとき、慌てふためくのです。
仏法の眼を以て見るならば、この巨大地震と国家破産は、最も恐るべき他国侵逼の前ぶれなのであります。
このとき、富士大石寺の源流のままに戦う仏弟子の大集団が出現して、大聖人様、日興上人の仰せのままに御奉公をするのです。
もう広宣流布は近い。どうか大信力を奮い起こして、顕正会こそ御本仏日蓮大聖人、日興上人の御心のままに戦い、広宣流布を力強く進めようではありませんか
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