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顕正新聞 平成十三年十一月十五日号
日目上人御報恩勤行会 厳かに奉修
「先師の地望を…」の大精神を深く拝す
浅井先生講演・日目上人御報恩勤行会
日蓮大聖人・日興上人に仕え奉り
御遺命の重きを身を以て教え給う
「日興跡条条事」
右、日目は十五の歳、日興に値うて法華を信じてより以来(このかた)、七十三歳の老体に至る、敢えて違失の儀なし。十七の歳、日蓮聖人の所(甲州身延山)に詣で、御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり。仍って後の為、証状件の如し。
本日は、第三祖日目上人が正慶二年十一月十五日、御歳七十四歳にして最後の天奏の途上、京都を目前に望む美濃の垂井において御遷化あそばされてより、六百六十九年の御命日であります。よってただいま、御報恩のため勤行会を奉修させて頂いた次第であります。
日目上人という御方は、大使命を持ってご出現された御方であります。 すなわち、下種の三宝に仕え奉り、御遺命を重しとすること、かくの如くあれかしということを、後世の我ら末弟に、身を以てお教え下さった尊い御方であります。
下種の三宝とは申すまでもなく、御本仏日蓮大聖人と、戒壇の御本尊と、二祖日興上人であられる。この下種三宝に直接仕え奉って、御遺命の重きを、我らにお教え下された御方が、実に日目上人なのであります。
「違失の儀なし」
日目上人の御徳というのは、ただいま拝読いたしました御付嘱状「日興跡条条事」に明らかですね。日興上人が御自ら、日目上人の行体を証明し賛嘆せられているのであります。
まず「右、日目は十五の歳、日興に値うて法華を信じてより以来、七十三歳の老体に至る、敢えて違失の儀なし」と。
凡夫というのは、せっかくこの値い難き御本尊様にお値いしても、すぐに信心を忘れてしまったり、あるいは慢心したり、あるいは教義に迷って逸脱・脱線したりということが間々ある。
しかるに日目上人は、十五の歳に日興上人にお会いするや、命で感じ、命で日蓮大聖人の仏法を信じ、以来、「七十三歳の老体に至る、敢えて違失の儀なし」と。
これはたいへんなことです。厳格なる日興上人の御証明です。以て日目上人のただ人ならぬことを、深く拝すべきであります。
常随給仕
次に「十七の歳、日蓮聖人の所(甲州身延山)に詣で、御在生七年の間常随給仕し」と。
入信二年後の十七歳のとき、日目上人は始めて身延にまします日蓮大聖人の御もとに詣で、大聖人に常随給仕し奉った。この年が建治二年ですね。
この建治二年は、大聖人様が佐渡から御還りになって身延に入山されてより、二年後に当る。
それまでは、日興上人が大聖人のおそばを離れず常随給仕されていたのです。日興上人は十三歳の年、大聖人に値い奉って直ちに入信された。そのときは立正安国論の諌暁が始まるときです。以来大聖人様は、法難に次ぐ法難の日々を送り給うた。その間、日興上人は伊豆の流罪のおりも、竜の口のときも、佐渡御流罪のときも、片時もおそばを離れず大聖人様に常随給仕申し上げ、そして大聖人が佐渡より還御あそばすや、身延にご案内をされたのであります。
さあ、それより、日興上人の猛折伏が始まった。その日興上人のお心は“末法下種の御本仏ここにまします。日本国の一切衆生、この御本仏を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉るべし”というにあられた。これすなわち、大聖人様が出世の本懐を遂げ給うときに当って、「唯願説之」の大機運を作る御奉公であられたのです。
日興上人の折伏弘通は広範囲にわたったが、ことに富士の裾野における弘通がその中心であった。
富士南麓の熱原地方には、滝泉寺という天台宗の寺があった。そこの若き学僧たちが、日興上人の教化によって続々と入信をして来た。日秀・日弁・日禅等の錚々たるメンバーです。これを見て院主代の行智が驚き、この建治二年にはすでに、日秀・日弁等を寺から追放するというような迫害が始まっていたのです。
このときにはまだ神四郎殿等は入信していない。この二年後の弘安元年の入信でありますが、建治二年には、日秀・日弁等への追放が始まり、二人はなお寺域に留まり、畑を耕しながら折伏を進め、その教化によって神四郎殿等が入信しているのです。このように建治二年にはすでに熱原の大法難の地鳴りが始まっていた。
そこに日興上人は、富士に留まり身を捨ててこの法戦の指揮を執るべく、日目上人を大聖人の御許に詣でしめ、仕えせしめたのであります。
日目上人の常随給仕における、その行体堅固なることは常に述べるごとくであります。毎朝、未明のうちに谷底に下り、清水を汲んではその桶を頭頂に載せ、大聖人様に献じ奉ったという。
そして日目上人はこの七年間、大聖人様のお傍に仕えその謦咳に接して、三大秘法の深義を命に刻まれたのです。大聖人様は山中において多くの弟子に連々と講義あそばす、日目上人はそれを一言一句もらさず、砂が水を吸うごとくに心肝に染められたのです。
死身弘法
弘安五年十月十三日、大聖人様は安詳として非滅の滅を現じ給うた。
この御葬送のおり、日興上人・日目上人は、大聖人様の御柩を輿に載せ肩に担い奉って、紅の涙を流しつつ「この身を捨てても御遺命を…」とのご決意であられた。
そして日興上人は、大聖人の御付嘱のままに 「本門弘通の大導師」として広宣流布の総指揮をお執りになる。また日目上人は日興上人に仕えつつ、いよいよ死身弘法を開始されるのであります。
大聖人様の百箇日法要が弘安六年一月に奉修された。この法要が終わるや、日目上人は日興上人に願い出て、東北弘通に立たれる。このとき日目上人わずか二四歳であられた。
奥州新田の地は、亡き父の領地であり、そこには兄もいる、大勢の親族もいる。日目上人は、まずこの故郷に戻って一族を折伏教化せられた。そして数ヶ月滞在の間に、なんと二つの法華堂をたちまちにお建てになられた。
弘安六年の十月十三日には御大会式が奉修される。そのために大石寺にお戻りになった日目上人は、翌年また奥州に下られ、その後も幾たびも下られております。
当時、富士大石寺から奥州新田へ行くには片道約二十日間。しかも山あり川あり、山には狼も山賊もいる。だから日目上人は護身用の短き刀を身に帯し、草鞋をつけて下られた。その御苦労は想像を絶するものです。
日興上人と一体不二
さて、日興上人と日目上人がいかに一体不二であられるかを拝するに、日興上人はなんと日目上人三一歳のときに、内々に血脈相承を授けておられるのであります。
日興上人は大聖人御入滅後七箇年、身延の山にお住まいになったが、地頭・波木井日円の謗法によって身延離山をされた。そして二年後の正応三年十月十三日に大石寺を建立され、この大石寺完成と同時に、日目上人に内々に血脈相承をあそばされているのです。
その証拠は二つある。一つは「御座替わりの御本尊」がましますこと。もう一つは、日目上人がその後、何幅もの御本尊を顕わしておられることです。
「御座替わりの御本尊」とは、血脈相承・手継を証明する御本尊で、まことに重々たる大幅であります。
通常、書写あそばす貫首上人の御名・判形は、中央の「日蓮在御判」左の下方にある。しかしこの御座替わりの御本尊は、右の下方に「正応三年十月十三日之を写す日興」として判形を加えられ、左の下方に「日目に之を授与す」とある。まさに血脈相承・御手継ぎの深意を顕わしておられる。
そして日興上人は、この血脈相承をあそばすと共に、事実上において大石寺を日目上人に託されておられるのです。このとき日興上人四十五歳、日目上人はわずか三十一歳であられる。いかに日興上人が 日目上人を信頼あそばし、一体不二であられたか、よくよく拝すべきであります。
この一体不二のお立場において、日目上人は日興上人のもと、全国の折伏弘通の先陣に立たれ、あの日本列島狭しの驚異的なる弘通をされているのです。
最後の天奏
また日興上人の代奏として、四十二度にわたる命かけての国主諌暁をなされている。その最後の諌暁が、あの京都の後醍醐天皇に対する天奏だったのであります。
正慶二年という年は、二月に目興上人が御遷化され、五月には鎌倉幕府が崩壊し、久々に京都の天子が政権をお執りになった年です。
大聖人様は弘安四年と弘安五年の二度にわたって、時の天子・後宇多天皇に対して「園城寺申状」を以て日目上人を代奏せしめておられる。そして弘安五年の時には、後宇多天皇より「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」との「下し文」があった。
日目上人はこの後宇多天皇の「下し文」を確実にせしむるため、今こそ天子が再び政権をお執りになったこの機会に、何としても国立戒壇建立の訴えをなさんと、長途の天奏を決意されたのです。
このときすでに七十四歳、お身体もお弱りになっておられた。もしひとたび京都に発つならば、二度と大石寺に帰ることはできない。このことをご覚悟の上で、敢えて天奏を決行されたのであります。
そして京都を目前に望む美濃の垂井の宿において、ついに体力尽き給い、日尊・日郷の二人の弟子が守護し奉るなか、安詳として御遷化あそばしたのであります。
「先師の地望」
このとき御所持の申状の末文には「日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ」と。「先師の地望」とは、日蓮大聖人の国立戒壇建立の御遺命です。このことを遂げんがために、いま天子の耳にこの大事を入れしむるということであります。それより六百六十九年、この「先師の地望」は未だ達せられていない。
そしていま広宣流布の前夜を迎えて、第六天の魔王の誑かしによって、正系門家は「国立戒壇」の御遺命を抛ってしまった。その罰で、学会・宗門はいま醜い争いに陥っている。
その中で学会は、政治野心に血道を上げ、さらに池田大作は世俗の名利を求めて、二・三日前には「これで百十一の名誉博士号を得た」などと誇っている。
片や阿部管長は、学会に暴かれたスキャンダルを釈明することに汲々として、本まで出して世間に訴えている。
このように「先師の地望」を全く忘れた今の濁乱の宗門の中にあって、顕正会だけが御遺命を守り奉り、国立戒壇をめざして身を捨てて御奉公のできること、何と有難いことであろうか。
顕正会こそ、この日目上人の御心を体して、何としても死身弘法を成しとげ、大聖人様、日興上人、日目上人に、応え奉ろうではありませんか。以上。
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