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日目上人の御心体し 広布最終段階を戦わん
( 東北代表者会議 )
伊豆で御誕生
さて、日目上人の御誕生は文応元年であります。文応元年といえば、大聖人様が立正安国論を以て国主を諫暁あそばした年です。このとき大聖人様は御歳三十九、おそばに仕え奉る日興上人は十五歳。この年に、日目上人は霊峰富士を北に仰ぐ伊豆の畑毛の地でお生まれになった。
父上は新田五郎重綱という方、奥州三迫・新田という地の領主です。ここは現在の宮城県登米郡に当る。この地を本貫(本領)として鎌倉幕府に仕える武士でありました。
母上は上野殿の長姉で、後に蓮阿尼と称せられた方です。だから日目上人と上野殿は甥と叔父の関係ですね。しかし歳は一つしか違わない。日目上人が一つ年下であります。
宮城県の新田の領主を父とする日目上人が、なぜ伊豆の畑毛でお生まれになったのかといえば、伊豆の畑毛郷は新田家の所領で、父上は鎌倉幕府に仕える都合から、常にはこの地に居住しておられたのであります。
日目上人の幼名は虎王丸。十三歳の時に伊豆の走湯山の山寺に上られた。走湯山とはいまの伊豆山です。温泉の湯が走り出ていたからこの地名がある。この山寺は天台宗の寺であった。当時の慣習として仏子の子弟は、みなこれらの山寺を学問所としていたのです。
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