|
日目上人の御心体し 広布最終段階を戦わん
( 東北代表者会議 )
大聖人様に常随給仕
二年後の十七歳の時、日目上人は初めて身延山に詣で、大聖人様のお目通りを頂いた。前々から日興上人様より大聖人様の偉大な御徳を聞いておられた日目上人は、初めて大聖人にお目にかかって、どれほど感激をされたことでありましょうか。
この日より日目上人は、大聖人の御在生七箇年の間、片時もおそばを離れず、仕え奉ったのであります。
その行体堅固なるさまは先般申したごとくに、毎朝夜明けと共に起きては谷底に下り水を汲み、その桶を頭の頂に載せて山道を登ったので、自然と頭骨がくぼんだとまで伝えられております。
大聖人様はこの身延山中において、多くの弟子のために連々と講義をあそばした。日目上人は、その総ての説法の座に侍り、一言も聞き漏らすことがなかったという。まさに砂が水を吸うごとく、大聖人の仰せのすべてを、宿縁の命に収められたのです。
後に日目上人が「巧於難問答の行者」すなわち法論の名手といわれたのも、その力は、この七年間の血の滲む研鑽の中に培われたのであります。
弘安二年、日目上人は二十歳。このとき、あの熱原の大法難が起きております。日興上人は鎌倉より馳せては逐一熱原の状況を大聖人様に申し上げる。それをおそばに侍って耳にされる日目上人が、いかに信心の熱血をたぎらせ給うたか、想像に余りあります。
そしてこの大法難を機として、大聖人様は一閻浮提の一切衆生に授与すべき本門戒壇の大御本尊を、楠の厚き板にご図顕あそばした。日目上人は大聖人のこの重大なる御振舞いを、おそばで凝視しておられたに違いないと、私は拝しております。
この弘安二年に、日目上人は大聖人様から 「釈子日目に之を授与す」 との脇書がある御本尊を賜っております。弱冠二十歳の日目上人が、このように御直筆の御本尊を頂くということは、いかにその信心が熱烈であり、大聖人の御心に叶っていたかということの証拠であります。
戻る 次
|
|