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日目上人の御心体し 広布最終段階を戦わん
( 東北代表者会議 )
最初の奏上
弘安四年、大聖人様は始めて京都の朝廷に対し、申状をお認めあそばした。
これまで大聖人の諫暁は、すべて政治の実権を握っている鎌倉幕府に対してなされていたが、御入滅前年の弘安四年にいたって、将来への深き思し召しから、初めて日本の真の国主である天皇に対し、申状を認め給うたのであります。
これは、未来事の広戦流布・王仏冥合を思し召されての下種の結縁かと、私は拝推し奉っております。
そしてこの天奏の大事を、大聖人様は日興上人に付し、日目上人を代奏として京都に上らしめ給うておられる。このとき日目上人二十二歳。
翌弘安五年、大聖人様は再び日目上人をして京都に上らせ天皇の御意を伺わしめ給うた。このとき朝廷から「下し文」が下された。これは極めて重大なことです。
その「申し文」に云く 「朕、他日法華を持たば、必ず富士山麓に求めん」と。 時の天子は後宇多天皇です。これが弘安五年五月二十九日。
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