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日目上人の御心体し 広布最終段階を戦わん
( 東北代表者会議 )
東北弘通
日目上人は日興上人に仕え奉ると同時に、猛烈と死身弘法に立たれた。そして日目上人の戦いの始めが、この東北弘通だったのであります。
大聖人様の百箇日法要が弘安六年正月に奉修されると、日目上人は直ちに日興上人に願い出て、東北弘通に立たれた。
陸奥には、すでに入信している母上の蓮阿尼と兄の新田四郎信綱夫妻がおられる。また多くの一族が住んでいる。この地に弘通することは、日目上人のかねてからの念願であられた。
当時、大石寺から宮城県までは歩いて片道二十数日。しかも途中は山あり、川あり、そして狼が、山賊がいる。その中を日目上人は護身用の刀を身に帯し、この陸奥に通われたのであります。
このことを思いつつ、きょう私は車でまいりました。東京からわずか三時間半でした。あまりに早く着いて、本当に申し訳ないと思った。これほど便利になってなお広戦流布が出来なかったら、本当に申し訳ない。もう一気にできる、やらなければ申し訳ない、そういう時が来ているのであります。
さて日目上人はこの東北へ、幾度も幾度も、片道二十余日をかけて通われたのです。東北だけではない、門下の先陣を切って全国に弘通を展開された。それが夏の合宿で学んだ、あの日興上人門下の「教域図」であります。まことに驚くべき弘通です。当時の交通不便の中、その弘通はなんと、列島全体に及んだのであります。
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