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日目上人の御心体し 広布最終段階を戦わん
( 東北代表者会議 )
「日興跡条々事」
正慶元年十一月十日、八十七歳の日興上人は「日興跡条々事」と題する御付属状を書き留められた。前述のごとく、日目上人への内々の血脈相承は正応三年の大石寺建立と同時になされている。しかし後々の証明のため、正式の文書とされたのです。日興上人御入滅の三月前のことでありました。
その御遺状に云く
「 日興跡条々事
一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内・山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。
一、日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉るべし。
一、大石寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し、修理を加え勤行を致し、広宣流布を待つべきなり。
右、日目は十五の歳、日興に値うて法華を信じてより以来、七十三歳の老体に至る、敢えて遺失の儀なし。十七の歳日蓮聖人の所(甲州 身延山)に詣で御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年間の間奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり。仍って後の為、証状件の如し。
十一月十日 日興 御判 」
ここに日目上人は名実ともに血脈付法の大導師、そして一閻浮提の座主となり給うたのであります。
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