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日目上人の御心体し 広布最終段階を戦わん
( 東北代表者会議 )
最後の天奏
正慶二年二月七日、日興上人が御遷化あそばした。日目上人にとって、十五の歳から七十四歳までの五十九年間お仕えしてきた直接の師匠とのお別れです。どれほど深いお悲しみであられたことか。
そして同年の五月、あの謗法の限りを尽くした鎌倉幕府がついに滅亡し、久々に朝廷が政治の実権を掌握した。これが有名な「建武の中興」といわれるもので、時の天子は後醍醐天皇です。
この天皇親政をご覧になって、日目上人は京都への天奏を決意された。
このとき日目上人七十四歳。すでに御身体はお弱りになっておられた。加えて長年の東奔西走によって、いつしか足のくるぶしを痛めておられた。ゆえに、もし一たび長途の天奏に立つならば、再び生きて帰れないことは、日目上人御自身がよくよく御存じであられた。
しかし日目上人には、何としても天皇の耳に大聖人の大願を伝えねばとの、必死の思いがあられた。
それは、五十二年前の弘安四年、大聖人の御命令によって申状を時の天子・後宇多天皇に代奏し、さらに翌年再び京都へ上り、ついに「下し文」を賜っているのです。その「下し文」には 「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」 とあった。このことを、何としても確実にしなければとの思いが、日目上人にはあられたのです。
ここに衰老の御身を顧みず、長途の天奏を決意されたのであります。その御心を拝察すれば
「たとえ途上倒れるとも、自分が行かねば大聖人様に申し訳ない」 ただこの一事であられたと、私は拝し奉るものであります。
天奏に立つ直前の十月十三日、日目上人は最後の御大会式を奉修され、懇ろに大聖人様に御暇ごいをあそばされた。
そして翌十一月の始め、寒気一段と増すなか、大石寺を後にされた。お供は日尊・日郷の二人。この二人の弟子を杖と頼み、弱られた足を一歩一歩と踏みしめ、京都へと向かわれたのであります。
大石寺を出発して十日あまりを経て、三河の国(愛知県)に入られた。この頃から、日目上人のご疲労は色濃くなった。御身を案じた二人の弟子は“いったん大石寺に引き返しては”と強くお勧め申し上げた。
しかし日目上人の御決意は、微動もされなかった。 このとき日目上人の脳裏に浮かび給うたのは、在りし日の大聖人様と日興上人の御温顔、そして「何としても大事の御遺命を・・・」との思いであられたに違いない。
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