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「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」
発刊 まえがき
( 「本門寺改称」の陰謀 )
だが、正本堂の落成式が過ぎると、またまた池田大作は誑惑を口にし始めた。加えて、あろうことか顕正会(当時妙信講)に対し、国立戒壇を捨てるべき旨を、細井日達管長をして要請せしめた。
この卑劣・無慚を見て、私は前にも増して強くその御遺命違背を責めた。
ここにおいて学会・宗門は開き直り、ついに妙信講に解散処分を下した。その理由は「宗門が禁止する国立戒壇を主張し、正本堂の訓諭に背くゆえ」というものであった。時に昭和四十九年八月十二日。
この処分で妙信講を抹殺したつもりの池田大作は、これより誰に憚ることなく、誑惑の完結を押し進める。
解散処分の三月後には、学会の本部総会で細井管長に「本門寺改称」について言及させた。「日本全人口の三分の一が入信すれば広宣流布であり、その時には、我が大石寺は僧俗の関係者協議の上で、大聖人ご遺命の富士山本門寺と改称することもあり得る」(取意)と。
この「本門寺改称」が、いかなる意味を持つかといえば --- 大石寺が富士山本門寺と改称されれば正本堂は自動的に富士山本門寺本堂になり、一期弘法付嘱書の「富士山本門寺戒壇」また百六箇抄の「富士山本門寺本堂」の金文を偽ることができる --- という大それたたばかりである。
これこそ池田大作が狙っていた誑惑の完結、まさしく正本堂落成以来十八年にわたって懐き続けてきた彼の一筋の執念であった。細井管長はこの発言五年後の昭和五十四年七月、臨終思うようにならずして急死を遂げた。
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