冨士大石寺顕正会の基礎知識


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   「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む

 あとがき

   
「本門寺改称」の陰謀潰える

 実は彼はこの前年、大石寺の大客殿前に、中国の天安門広場と見まごうほどの大広場を造成していた。
 ここで、招待した外国元首等を「梵天・帝釈」に見立てて「大石寺開創七百年慶祝記念文化祭」を催し、席上、華やかに「広宣流布達成」を宣言するつもりだったのである。

 そして翌十月の慶讃法要において、阿部管長に「本門寺」の寺号公称を高らかに発表させる --- これが彼の心算であった。ところが顕正会の捨身護法の決意を知って、彼は外国元首らの招待を急遽キャンセルし、宗門にも記念文化祭の規模縮小を秋谷会長を通して連絡して来た。
 「来る九月二日の大石寺開創七百年慶祝記念文化祭については、顕正会がデモをかけてくるとの噂があるので、規模を縮小したい」と。

 そしてこの通告どおり、記念文化祭は「広布達成」の宣言もなく、ただ歌と踊りの無意味で小規模なものに萎んでしまった。しかし池田は、記念文化祭での宣言は省略しても、慶讃法要での「本門寺改称」宣言だけは、阿部管長にやらせるつもりでいた。その池田の懸念はただ一つ、それは阿部管長の裏切りだった。
 細井管長がそうであったように、阿部管長も顕正会の強き諌めによって学会を裏切るのではないか --- この疑心暗鬼が、またしても細井管長の時と同様に、本山への経済封鎖となった。

 池田は「月例登山」を激減させ、さらに阿部管長との約束だった、一百箇寺の建立をも意図的に遅らせた。この経済封鎖はかえって阿部管長の反発を招いた。ここに、あれほど一枚岩のごとくに見えた宗門・学会の癒着に、始めて深刻な亀裂が生じたのであった。その中に平成二年十月十二日、いよいよ大石寺開創七百年慶讃法要が行われた。企てのごとくならば、席上「本門寺改称」が厳かに宣言されるはずであった。
 だが阿部管長は、御宝前で読み上げた慶讃文において、わざと池田に当てつけるように「大本門寺の寺号公称は、広宣流布達成の未来にある」(取意)と述べた。ここに本門寺改称の大陰謀は、完全に潰え去ったのであった



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