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十一通申状
このように、一国あげて大聖人を憎み迫害するうちに、文永五年正月、蒙古国より、我が国を襲うべき旨の国書が到来した。九ヶ年前の立正安国論の御予言がここに事実となって来たのである。幕府はただ周章狼狽するのみであった。
もしこのまま過ぎゆくならば、謗法の失により 「
此の国の人々、今生には一同に修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり 」(曽谷二郎入道殿御返事)ということになる。大聖人が最も憂え、そして不憫とおぼされていたのはこの事であった。
ここに大聖人は、北条時宗・平左衛門等の幕府の首脳、および良観・道隆等の諸宗代表に書状を送り、仏法の邪正を一気に決すべく、公場対決を迫られた。これが十一通申状である。
良観(律宗)・道隆(禅宗)等は、仏法に無智な民衆をたぶらかし、当時一国に生き仏のごとく崇められていた邪僧である。もとより彼等に、大聖人との法義上の対決などできるわけがない。
追いつめられた彼等は、讒言を構えて、大聖人を殺害することを幕府の権力者に密かに訴え出た。この讒言を聞き入れたのが、当時幕府の実力者・平左衛門であった。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より
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