冨士大石寺顕正会の基礎知識


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 文永八年九月十二日、平左衛門は数百人の武装兵士を率いて、怒涛のごとく大聖人の草庵に押し寄せた。泰然自若として坐し給う大聖人のそばに、平左衛門の郎従・少輔房という者が走りより、大聖人が懐中されていた法華経第五の巻を取り出し、これを杖として、恐れ多くも大聖人の御顔を三たび打ち奉った。その他の兵士も庵室の中で法華経の巻物を打ち散らし、あるいは足にふみ、あるいは身にまとう等の狼藉を働いた。

 この狂態をじっと御覧になっておられた大聖人は、大音声を以て 「
あら面白や、平左衛門尉が物に狂うを見よ。とのばら、但今ぞ日本の柱を倒す」(種々御振舞御書) と叱咤あそばされた。平左衛門は顔面蒼白になり、棒のごとくその場に立ちすくんだ。兵士共は“逮捕される大聖人こそ臆すべきなのに、これは一体いかなることか”と、一様に顔色を失った。
 平左衛門は、逮捕した大聖人を裁判にもかけず、その日のうちに竜の口で斬首しようと決めていた。

 この日、十二日の深夜、馬上の人となった大聖人は、多数の警護の兵士に取り囲まれて、竜の口の刑場へと向われた。途中、急を聞いた四条金吾が駆けつけ、馬の轡をとってお供する。この四条金吾は“大聖人に万一のことあれば、追い腹切って御供せん”と決意していた強信の鎌倉武士である。
 やがて一行は刑場に着いた。暗闇の中に大勢の兵士が屯(たむろ)して騒いでいる。これを見て四条金吾は「
只今なり」と泣き伏した。大聖人は 「不覚のとのばらかな、これほどの悦びをば笑へかし、いかに約束をば違へらるるぞ」と仰せられた。

 やがて大聖人は頸の座に着き、静かに合掌し給うた。時はまさに丑の刻(午前二時頃)。太刀取り越智の三郎は傍に立ち、大刀を振りかざした。
 この時、大奇瑞が起きた。「
江の島のかたより、月のごとく光りたる物、まりのやうにて、辰巳のかたより戌亥のかたへ光りわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物の光り月夜のやうにて、人人の面もみな見ゆ。太刀取目くらみ倒れ臥し、兵共おぢ怖れ、興さめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり」 ――― 突如として巨大なる光り物が、江の島の方角から出現したのである。
 太刀取り越智の三郎は眼がくらんでその場に倒れ伏し、取り囲んでいた兵士どもも恐怖のあまり一斉に逃げ出し、ある者は馬から下りてかしこまり、ある者は馬上にうずくまってしまった。

 もう頸を切るどころではない。一人として大聖人のそばに寄る者もない。その中で、ひとり砂浜に坐られた大聖人は厳然と叫ばれた。「
いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近く打ちよれや、打ちよれや
 しかし誰一人近寄る者とてない。大聖人は再び高声で叫ばれた。「
夜あけば、いかに、いかに。頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」と。
 響くは凜々たる大聖人の御声のみ。返事をする者とてない。皆ひれ伏してしまったのである。―― 何たる厳粛、何たる不思議、かかる光景が人類史上にあったであろうか。まさに国家権力が、一人の大聖人の御頸を切ることができず、その御威徳の前にひれ伏してしまったのであった。

 この竜の口の大法難は、大聖人の一代御化導の上に極めて重大な意義を持っている。それは、この竜の口の大現証こそ、大聖人が
久遠元初の自受用身・末法下種の本仏として、成道を遂げられたことを示すものである。
 すなわち立宗以来の身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、「法界を自身と開く」――宇宙即我が身――という御本仏の大境界を、事実の上に証得あそばしたのである。
 大聖人の
名字凡夫の御身の当体が、そのまま久遠元初の自受用身と成り給う。これを末法下種仏の「発迹顕本」という。時に聖寿五十歳であられた。


         (  日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より  )


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