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佐渡流罪
この大法難ののち、幕府は大聖人を佐渡へ流罪した。この北海の孤島で大聖人を待ち受けていたのは、邪僧・土民の憎悪のまなざしと、飢えと、寒さであった。しかしこれらも、大聖人の大法悦を妨げることはできなかった。
「 我等は流人なれども、心身共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう 」(最蓮房御返事)と。
生きて帰ることの出来ないといわれる流罪の地・佐渡において、このような歓喜法悦を味わっておられるのは、劫初以来大聖人御一人であられよう。誰人も壊すことのできない絶対幸福、御本仏の大境界とは、かくのごときものであろうか。
さて、釈尊は勧持品に上行菩薩の受ける大難を「悪口罵詈」(悪口をいわれ罵られる)、「及加刀杖」(刀で切られ杖で打たれる)、「数数見擯出」(しばしば流罪になる)等と予言証明したが、立宗より佐渡に至るまでの大聖人の御振舞を拝見すれば、この経文に一々符合している。
「悪口罵詈」は説明の要もない。「及加刀杖」のうち「杖」は、少輔房が法華経第五の巻で大聖人の御顔を打ち奉ったこと、また「刀」は小松原と竜の口の大難。「数数見擯出」は伊豆と佐渡の両度の流罪である。
釈尊滅後二千二百余年の間、全世界の中で、この勧持品の経文を身に読まれた御方は他にはない。まさに日蓮大聖人こそ釈尊が予言した上行菩薩その人であられること、疑わんとしてなお信ぜざるを得ないであろう。
ここに佐渡における大聖人は、外用(経文の説相に準じた外面的御立場)は、上行菩薩、そして内証(真実の深い御立場)においては久遠元初の自受用身として、いよいよ三大秘法の御法門をお述べあそばすのである。
「 法門の事は、佐渡の国へながされ候いし已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。―― 去る文永八年九月十二日の夜、竜の口にて頸をはねられんとせし時よりのち、ふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけると思うて、佐渡の国より弟子どもに内内申す法門あり 」(三沢抄)と。
佐渡において著わされた重要御書は数多い。その中にまず開目抄において大聖人は、末法の全人類を救うご本仏として、その鉄石・不退の御決意を、次のように述べられている。
「 詮ずるところは天も捨て給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責めを堪えざるゆへ。久遠・大通の者の三・五の塵を経る、悪知識に値うゆへなり。善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。本と願を立つ。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生を期せよ、夫母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難風の前の塵なるべし。我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず 」と。
まことに、全人類を救済せんとのこの三大誓願を拝せば、御本仏の鉄石のごとき御決意と無限の大慈悲が身にせまり、ただ身震いをおぼえるのみである。そして巻末に至り 「
日蓮は日本国の諸人に主・師・父母なり 」と結ばれている。まさしく大聖人こそ末法下種の主・師・親すなわち全人類救済の御本仏なることが、ここに明示されている。
次いで観心本尊抄においては「 一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う 」と仰せられ、御本尊の深き御内容について、御説明されている。
そして佐渡以後、御本尊を書き顕わされ、強信の弟子等に授与し給うておられるのである。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より
)
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