|
立正安国論の予言適中
大聖人を流罪に処し奉っているうちに、蒙古の動きは不穏さを増してきた。これに怯えた幕府、ことに執権の北条時宗は一分の改悔を生じ、大聖人の流罪を許した。まさに諸天の働きである。
鎌倉に帰られた大聖人は、文永十一年四月八日、殿中において平左衛門と対面された。国家権力者に対する第三度の諌暁である。
権威を恐れず、いささかも諂わず、ただ国を救わんと直諌あそばす大聖人に、平左衛門は以前とは打って変った態度で、蒙古襲来の時期について尋ねた。「
いつごろか寄せ候べき 」(撰時抄)
大聖人は答えられた。「 経文にはいつとは見へ候はねども、天の御気色いかり少なからず、急に見へて候。よも今年は過ごし候はじ 」(撰時抄)と。
三度諌めてなお正法を用いぬ幕府を見て、大聖人は鎌倉を去り、身延へ入山された。十四年前の立正安国論に経文を引いて云く 「
聖人去らん時は七難必ず起らん 」と。
果たせるかな、その年の秋十月、大蒙古の軍船は海を蔽って襲来した。立正安国論の御予言は、寸分も違わず適中したのである。御本仏にあらずして、どうしてこのような符合があり得ようか。
この兼知未萌、また大難を忍受し給う忍難慈勝、さらに竜の口における絶大威力、凡夫のおよぶべからざる御本仏の御徳を、深く拝し奉らなくてはならない。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より
)
戻る 次
|
|