冨士大石寺顕正会の基礎知識


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     熱原の法難

 大聖人が身延に入山されてより、若き日興上人の猛然たる折伏が、富士南麓にくりひろげられた。この弘教により、弘安元年熱原地方に、神四郎・弥五郎・弥六郎という農民の三兄弟が入信した。この三人は宿縁のもよおすところ、日興上人の説法を聴聞するや、直ちに熱烈な信心に立ち、次々と入信する農民と共に「 法華講衆 」と名乗った。法華講衆の折伏弘通が進むにつれ、地元滝泉寺の邪僧・行智を中心とした激しい怨嫉が巻きおこった。彼等は幕府の権力者・平左衛門と連絡を取りつつ、法華講衆の潰滅を策した。

 ここに門下の信徒が受けた法難としては今までにない「 熱原の大法難 」が起きた。弘安二年九月、官憲と結託した謗法者らは、日秀(日興上人の弟子)の田の稲刈りを手伝っていた法華講衆の一同を、あろうことか“他人の稲を盗んだ”として捕縛し、直ちに鎌倉へ押送したのであった。
 この法華講衆を鎌倉で待ち構えていたのは、平左衛門であった。彼は大聖人の御威徳にはとうてい歯の立たぬことを知っていたが、その無念を、いま己の権威で法華講衆を退転せしめ、晴らそうとしていたのである。

 神四郎ら二十人は、平左衛門の私邸の庭に引き据えられた。平左衛門は法華講衆を睨めまわし、居丈高に申し渡した。「 汝等、法華経を捨てて念仏を唱えよ。そして謝罪状を書け。さすれば郷里に帰さん、さもなければ頸を刎ねるであろう 」と。
 一も二もなく農民らは恐れ畏み、命乞いをするとばかり彼は思った。――だが平左衛門の卑しき想像は完全に覆った。
 神四郎・弥五郎・弥六郎を中心とする二十人は、自若として臆することなく、一死を賭して「
南無妙法蓮華経 」と唱え、以て答えに替えたのであった。

 法華講衆の死をも恐れぬ気魄に、平左衛門は顔色を失った。この時彼の脳裏に浮んだのは、文永八年九月十二日、自ら兵を率いて大聖人を逮捕せんと庵室を襲った時の、大聖人の師子王のごとき御気魄であったに違いない。
 気圧された思いはやがて憤怒に変った。彼はかたわらに控えていた次男の飯沼判官に命じ、蟇目の矢を射させた。蟇目の矢とは、くりぬいた桐材をやじりとした鏑矢である。射ると「ヒュー、ヒュー」と音がする。彼は権威を恐れぬ農民をこの蟇目で威し、退転させようと試みたのである。

 飯沼判官の放つ矢は容赦なく、一人一人を嘖む。そのたびに平左衛門は「 念仏を唱えよ 」と威し責めた。しかし、一人として退する者はなかった。かえって一矢当るごとに唱題の声は庭内に高まった。法華講衆はただ「
一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」の大信心に住していたのであった。
 あまりのことに平左衛門は驚き、蟇目を中止させた。そしてのち、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を引き出し、――ついにその頸を刎ねたのであった。


         (  日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より  )


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