冨士大石寺顕正会の基礎知識


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     出世の本懐

 法華講衆の身を案じ、幕府を直諌せんと鎌倉まで出向いていた日興上人は、直ちにこのことを身延の大聖人に急報申し上げた。
 大聖人は深く深く御感あそばされ、神四郎等法華講衆を「願主」として、御一代の最大事・出世の本懐たる「 本門戒壇の大御本尊 」を建立あそばされた。時に弘安二年十月十二日、聖寿五十八歳であられた。

 思うに、法華講衆の振舞は、とうてい凡夫のなせるわざではない。名もなき農民が天下の権威も恐れず、仏法のためには身命も惜しまなかったのは、ただ大聖人の師子王心によく同心し奉ったがゆえである。「
師子王は百獣に怖ぢず、師子の子又かくのごとし 」(聖人御難事)とはこれである。
 名もなき農民が、それも一人・二人ではない、集団として大聖人の師子王心に同心し奉る。この異体同心こそ、未来事の広宣流布の瑞相、
国立戒壇建立の先序でなくて何であろうか。

 ここにおいて大聖人は、神四郎等法華講衆を「本門戒壇の大御本尊」の願主とし給うたのである。
 この熱原の法華講衆は弘安元年の入信、この大法難までわずか一年であった。しかも未だ大聖人にお値いする機会も得ていない。しかるに大聖人の御意に叶う御奉公を貫き通したこと、その宿縁の深厚さに、ただ驚かざるを得ない。
 御本仏がいよいよ出世の本懐を遂げんとおぼされた弘安年中に至って、血脈付法の人日興上人の弘通により、しかも戒壇建立の地の富士南麓において、かかる不惜身命の集団が忽然と出現したことは、まさに御本仏の仏力の然らしむるところと、嘆ずるのみである。

 さて、弘安二年の「 本門戒壇の大御本尊 」は、大聖人の出世の本懐であられる。

 ゆえに聖人御難事には「
去ぬる建長五年四月二十八日 --- 午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年弘安二年なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其の中の大難申す計りなし、先々に申すが如し。余は二十七年なり、其の間の大難は各々かつしろしめせり 」と。

 釈尊・天台・伝教等三聖が出世の本懐を遂げられた年数と対比しつつ、「
余は二十七年なり 」と仰せられている。すなわち末法の御本仏日蓮大聖人は、立宗より二十七年目の弘安二年に「 本門戒壇の大御本尊 」を建立せられ、ここに出世の本懐を遂げ給うたのである。

 佐渡以後、大聖人は強信・有縁の弟子に御本尊を授与されているが、これらの御本尊は「一機一縁」といって、個人に授与されたものである。
 弘安二年の「 本門戒壇の大御本尊 」は、末法の全人類に総じて授与し給うた大御本尊で、広宣流布の暁には本門戒壇に奉安さるべき御本尊なるゆえ、「 本門戒壇の大御本尊 」と申し上げるのである。この大御本尊こそ、遠元初の自受用身・日蓮大聖人の御当体であられる。

 三大秘法のうち、本門の題目は立宗の時唱え出されたが、その本門の題目の実体こそこの「 本門戒壇の大御本尊 」であられる。そして、この大御本尊を一国一同に信じ奉る時、本門戒壇が建立されるのである。


         (  日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より  )


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