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本門戒壇の事と義について
近年、創価学会が正本堂を御遺命の戒壇と偽ったことから、日蓮正宗の中で本門戒壇の事と義について法義上の混乱が見られるので、重ねてここに附言する。
まず戒壇の事と義とはどういう意味かといえば、事とは事相(事実の姿)、義とは義理(道理としてその意義がある)の意である。
すなわち、大聖人が三大秘法抄等に御遺命された本門戒壇は、広宣流布の時が至って始めて“事実の姿”として建立される。ゆえにこの御遺命の戒壇を事(事相)の戒壇というのである。
では、広宣流布以前において本門戒壇の意義はないのかといえば、そうではない。たとえ広布の時至らず未だ事の戒壇の建立はなくとも、事の戒壇に安置し奉るべき「
本門戒壇の大御本尊 」まします上は、その所は義として本門戒壇に当る。
ゆえに日寛上人は「 未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊存する上は其の住処は戒壇なり 」(寿量品談義)と仰せられている。これが義の戒壇である。
また日興上人以下嫡々歴代書写の御本尊安置の道場も、遠くは枝葉として義の戒壇の意味を持つ。以上が日蓮正宗伝統の、本門戒壇の事と義についての定義である。
次に、その文証を引く。
日寛上人は法華取要抄文段に、まず義の戒壇を説明されて「
義理(義)の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く『当に知るべし、この処は即ちこれ道場』とはこれなり。天台云く『仏其の中に住す、即ちこれ塔の義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり 」と。
すなわち、広宣流布以前といえども、戒壇の大御本尊まします所は「 義理・事の戒壇に当る 」として、「 故に当山は本門戒壇の霊地なり 」と仰せられている。これが義の戒壇である。
さらに枝葉としての義の戒壇については「
またまた当に知るべし、広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りといえども仍これ枝流にしてこれ根源にあらず。まさに本門戒壇の本尊所住の処すなわちこれ根源なり 」と。
すなわち広宣流布の時になれば、諸宗の本山・寺々に至るまでみな大石寺の末寺となって、嫡々の御法主が書写された本尊を安置するようになる。この処も枝葉として義の戒壇に当ると仰せられている。もちろん広布以前に嫡々書写の本尊を安置している本宗の末寺・在家の道場がその義に当ることは論をまたない。
次に事の戒壇を明かされて「 正しく事の戒壇とは、秘法抄に云く『王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり』等云々 」と。
まさに三大秘法抄に御遺命の、広布の暁の国立戒壇を、事の戒壇と定められている。以上が日寛上人の御指南である。
また日亨上人は「 この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に、勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは、本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える 」(正宗綱要)と。
また日淳上人は「 御文(三大秘法抄・一期弘法付書)に、王法と仏法と冥合して国主が此の法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる、それを事の戒法と申すと仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此のところを義の戒壇と申し上げるのであります 」(日蓮大聖人の教義)と。
以上、本門戒壇の事と義についての文証、まことに明らかである。
近年に至って細井管長が“戒壇の大御本尊まします処は、いつでもどこでも事の戒壇である。したがって正本堂は事の戒壇である”などと云い出したのは、正本堂を御遺命の戒壇と偽った学会の誑惑を庇うための詭弁にすぎない。このことは、同管長が御登座直後に述べられた正論との自語相違を見れば、あえて説明の要もない。
その正論に云く「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります 」(昭和三十二年四月六日御説法)と。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より
)
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