冨士大石寺顕正会の基礎知識


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朝夕の勤行は、仏道修行の基本である。御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えれば、御本尊の仏力・法力により、必ず一生の中に即身成仏を遂げさせて頂くことができる。

 日寛上人は御本尊の力用と唱題の功徳について「
此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち祈りとして叶わざるは無く、罪として滅せざるは無く、福として来らざるは無く、理として顕れざるは無きなり」(観心本尊抄文段)と仰せられている。

 対境の御本尊について

 さて、日寛上人が「此の本尊」と仰せられた御本尊とは、別して、大聖人が弘安二年十月十二日に御図顕あそばされた「本門戒壇の大御本尊」の御事である。
 この大御本尊は、日本および世界の全人類に総じて授与された御本尊で、広宣流布の暁には本門戒壇に安置さるべき御本尊なるゆえに、「
本門戒壇の大御本尊」と申し上げる。
 
 大聖人が御在世に書き顕わされた御本尊は数多にのぼるが、それらの悉くは「一機一縁」といって、信心強盛の個人に授与された御本尊である。ここに、全世界の人々に総じて授与された御本尊は、ただこの弘安二年の戒壇の大御本尊一幅である。この大御本尊こそ三大秘法の随一、大聖人
出世の本懐であられる。
 ゆえに大聖人滅後においては、この戒壇の大御本尊を御本仏日蓮大聖人の御当体、唯一の帰命依止の法体と仰ぎまいらせねばならない。

 この戒壇の大御本尊は弘安五年に大聖人より日興上人に御付嘱され、以来日目上人・日道上人・日行上人と次第に相伝護持され、いま広宣流布の時を待って冨士大石寺にまします。
 私達が勤行の時、信じ唱えまいらせるところの対境・法体とは、実にこの戒壇の大御本尊にてましますのである。

 冨士大石寺門流においては、入信者の信行が進んで不退の金剛信が確認された時、日興上人以来嫡々付法の大石寺歴代上人が、この戒壇の大御本尊を書写して授与して下さる。授与された弟子・信徒は、その書写された本尊を即戒壇の大御本尊と拝して、日夜勤行に励むのである。
 ただし、本宗における御本尊の授与は極めて厳格で、入信早々に授与されるということは絶対になく、身命も惜しまぬ信心が確立してのち、始めて授与されるのである。したがって、御本尊を頂戴するまでは、すべての人が、我が家より遠く戒壇の大御本尊を遥拝し奉って勤行申し上げる、いわゆる「遥拝勤行」がまず信心の出発となる。これが本宗伝統の厳格なる風儀である。

 宗門上代において、御本尊授与がいかに厳格であったかを、二祖日興上人の御指南に拝してみよう。「富士一跡門徒存知事」に「
御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞えあり、いわゆる日向・日頂・日春等なり。日興の弟子分においては、在家・出家の中に、或いは身命を捨て、或いは疵を被り、若しはまた在所を追放おいはなたれて、一分の信心の有る輩に、忝くも書写し奉り、之を授与する者なり」と。

 日興上人と日向・日頂等の五老僧と、御本尊に対する姿勢が全く違っていたことがよくわかろう。日向・日頂等は御本尊の尊厳がわからなかったために、大聖人御直筆の御本尊を「形木に彫む」すなわち版木におこして印刷し、それを信心もない輩に軽々しく授与していたのである。まことに不敬の至りである。
 この不敬に対して日興上人は“日興の弟子分においては、信心のゆえにあるいは身命を捨て、あるいは傷を受け、あるいは追放されるなど、信心の色あらわれた不惜身命の者に対してのみ、恐れ多くも戒壇の大御本尊を書写し奉り、これを授与する”と仰せられている。

 日興上人の門流(冨士大石寺)においては、御本尊の授与がいかに厳格であったかが、この御文でよくわかる。まさに御本尊は、入信時に軽々しく授与されるものではなく、信心決定の結果として授与されたのである。
 ゆえに、あの熱原の法華講衆にしても、入信未だ日も浅く、したがって未だ御本尊を頂戴せぬまま、遥拝勤行に徹してあの不惜身命の大仏事を成しとげられたのである。

 近年本宗において、信徒の増加にともなって、止むなく信心決定までの暫定の仮本尊として、形木御本尊(印刷された御本尊)が下附されるようになった。もちろん本宗における形木御本尊は、日興上人が日向・日頂等を誡められた御制誡に該当するものではなく正しき暫定の仮本尊であるが、これとても、よく創価学会員の入信勧誘に見られるような軽々しい下附、あるいは不信の輩に無理に押しつけるごときは、「軽賤」の罪に当たろう。

 いま顕正会は、正系門家の中で創価学会が御遺命を破壊せんとするのを見て諌め、ために不当の解散処分を受けたが、この迫害により、計らずも
御在世の信心に立ち還ることができた。すなわち御在世の信徒の方々が厳格なる風儀のもと信行に励まれたごとく、いま顕正会員もまず遥拝勤行に徹し、広宣流布に立ち上がっているのである。

 御遺命を守護せんとして不当の解散処分を受けたことが、「
或いは疵を被り、若しはまた在所を追放たれて」に当たれば、これほどの喜びはない。
 やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜る資格を得るのである。顕正会員は、いま御在世のごとき厳格なる信心修行が貫けることを、誇りとしなくてはならない。


         (  日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第五章より  )


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