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折伏とは何か
仏法を弘める方法に「摂受」と「折伏」という二大潮流がある。
摂受とは摂引容受といって、たとえ相手が低劣なる法を信じていても、これを容認しながら次第に正しい教えに誘引していくという柔かい弘教法である。
いっぽう折伏とは、破折屈伏の義で、相手の間違った思想・信仰を破折し、唯一の正法に帰依せしめるという剛(つよ)い弘教法である。
どういう時に摂受を行じ、どういう時に折伏を行ずべきかということは仏法上の重大問題で、もしこれを取り違えると、成仏得道も叶わないと、大聖人は仰せられている。
「凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり、一切の経論此の二を出でざるなり」(如説修行抄)、 「設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、――時期をしらず摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき」(開目抄)、 「仏法は摂折・折伏時によるべし、譬えば世間の文・武二道の如し」(佐渡御書)、 「修行に摂折あり、摂受の時折伏を行ずるも非なり、折伏の時摂受を行ずるも失なり、然るに今の世は摂受の時か折伏の時か、先づ是れを知るべし」(聖愚問答抄)と。
では、どういう時に摂受を行じ、どういう時に折伏を行ずるのかといえば、釈迦仏法の利益のおよぶ正像二千年間(釈迦滅後二千年の間)は摂受であり、それ以後の末法という時代は折伏でなければいけない。
なぜかといえば、正像二千年の間に生まれてくる大衆は「本已有善」(ほんいうぜん)といって、過去世にすでに下種を受けている者ばかりなので、あるいは小乗経を縁とし、あるいは権大乗経を縁として法華経の悟りに入ることが出来た。ゆえに種々の教えを一応認め、漸々と正法に誘引する摂受が、正像の時期には適していたのである。
しかし正像二千年を過ぎて末法という時代になると、生まれてくる衆生は「本未有善」(ほんみうぜん)といって、未だ過去に下種を受けたことのない三毒強盛の荒凡夫ばかりとなる。この本未有善の衆生は、新たに下種を受けなければ成仏できない。ゆえに末法における成仏の正法はただ法華経本門寿量品の文底に秘沈された下種の三大秘法だけとなる。
この時、一切の諸宗・諸経は利益を失うばかりか、唯一の成仏の法たる三大秘法に背く謗法の邪宗となってしまう。ゆえに末法においては、これら邪宗を破折し“この御本尊以外には成仏の法はない”とはっきりと教える以外に人は救えない。これが末法の折伏である。
このように折伏こそ末法の時に適う仏道修行であり、人を救う最高の慈悲の行為なのである。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第五章より
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