冨士大石寺顕正会の基礎知識


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     折伏の心がけ

 確信と慈悲

 折伏は、仏様の使いとして一切大衆を救う振舞いであるから、折伏を行ずる者はまず御本尊絶対の確信と、慈悲の思いに立たなくてはならない。

 恐れ多いが御本尊を拝見すれば、右の御肩に「
若し悩乱する者は頭七分に破る」また左の御肩には「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」とある。
 罰と利益に対する御本仏の厳たる御説法である。この御説法を拝し、"御本尊を信ずる者は必ず幸せになり、謗ずる者は大罰を受ける"との大確信に立つことが、折伏に当って何よりも大切である。

 この確信に立つ時、「
師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし、彼等は野干(やかん)のほうるなり、日蓮が一門は師子の吼(ほう)るなり」(聖人御難事)との仰せがよくよくわかり、仏弟子として堂々と法を説くことができるのである。
 そして「この人も御本尊を信ずれば幸せになれる」との慈悲の思いをこめて、柔和に諄々、御本尊の功徳を説き聞かせるべきである。

 勇気と忍耐

 折伏を行ずるに当っては
大勇猛心(だいゆうみょうしん)を持たなくてはならない。たとえ相手が社会的地位のある者であろうと大学者であろうと、こと仏法に関しては無智なのであるから、仏の使いとして臆することなく、仏法を説ききる勇気が必要である。
 「
日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」(教行証御書)、 「仏の御使となのりながら臆せんは無下の人々なり」(種々御振舞御書)との仰せを心腑に染めたい。

 また末法の大衆は貧・瞋・癡の三毒が強く、正法を素直に聞く者は少ない。小さな親切なら誰にもすぐ理解され感謝されもするが、人を根本から救う大慈悲は、かえって理解され難いのである。理解されないどころか時には悪口・罵詈されることすらある。
 ゆえに忍耐の心がなければ、末法の大衆を救うことはできない。釈尊は末法に三大秘法を弘通する上行菩薩の徳を称えて「
其の志念堅固にして、大忍辱力あり」と述べているが、大聖人の忍難の御振舞いを拝せば、まさに経文のごとくである。

 「
此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆う道理なるが故に、流罪せられ命にも及びなり。然ども、いまだこりず候」(曽谷殿御返事)、 「日蓮一度もしりぞく心なし」(辨殿尼御前御書)、 「れば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」(開目抄)と。
 大聖人がこのように大忍辱(にんにく)を以て難を忍ばれたのは、ひとえに大慈悲のゆえである。いま私達は慈悲においては御本仏の千万分の一にも及ばないが、大聖人への忠誠心のゆえに、またよく耐え忍ぶ強い心が湧いてくるのである。


         (  日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第五章より  )


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