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一段高い慈悲の立場
理論闘争ではない
また折伏は理論闘争ではない。生活に則して罰と利益を認識させ、仏法を実践せしむるのが目的であるから、いたずらに議論のための議論に終始してはならない。
まして相手と対等の立場に立って興奮したり、感情的になって相争うようなことがあってはならない。あくまでも仏の御使いとして、一段高い慈悲の立場に立つべきである。
大聖人はもったいなくも、我等末弟の仏法上の位を、四味三教の極位ならびに爾前の円人に超過するだけでなく、諸宗の元祖に勝出すること百千万億倍であると仰せられ、さらに 「請う、国中の諸人、我が末弟等を軽(かろん)ずる事勿(なか)れ、--- 天子の襁褓(むつき)に纒(まとわ)れ、大竜の始めて生ずるが如し、蔑如(べつじょ)すること勿れ、蔑如すること勿れ」(四信五品抄) とまで仰せ下されている。
どうしてこのような高い位を許し給うのか、それは、たとえ智解はなくとも三大秘法をたもち、仏様の使いとして折伏を行ずるがゆえである。忘れても、三毒の大衆と対等の立場に立って相争うようなことがあってはならない。
また折伏に当って、いたずらに大声を出して威したり、粗暴な態度をしてはならぬ。非常識な言動は、かえって法を下げることになる。
「雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅ましき事なるべし」(教行証御書)と。
ただし、仏法をあなずる者に対しては、師子王の気魄を以てその驕慢(きょうまん)を打ち砕かねばならぬ。また仏法の邪正を決する法論等においては、「法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても、其の過有らんやと意得て宗論すべし」(教行証御書)との仰せのままに、大声叱咤して邪正を破折する気魄を持たねばならない。
折伏には徒労がない
折伏には徒労ということがない。相手が素直に入信すればこれほどの喜びはないが、たとえ反対しようとも、逆縁下種といって、相手の生命にはすでに仏種が下されたことになり、いつかは正法にめざめて成仏するのである。
「当世の人、何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑なき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり」(法華初心成仏抄)と。
この仰せのごとく、順逆二縁ともに折伏で救い切るとの確信に立って、あせることなく胸を張って堂々の折伏を行じようではないか。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第五章より
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