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三障四魔に打ち勝つ信心
仏法を実践し成仏を願う者にとって、よくよく心せねばならぬことがある。それは“正法には必ず魔の妨害がある”ということである。
本来この大宇宙には、仏法を妨げようとする魔の生命活動がある。ゆえにもし人が正法を修行して、まさに成仏せんとする時、必ず魔が障碍をなして仏道修行を阻むのである。
大聖人はこの魔障について次のごとく仰せられている。「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云く、『行解(ぎょうげ)既に勤(つとめ)ぬれば三障四魔(さんしょうしま)紛然として競い起る、乃至随うべからず、畏るべからず、之に随えば人をして悪道に向わしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云々。此の釈は日蓮が身に当るのみならず、門家の明鏡なり、謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(兄弟抄)と。
この御文を拝すれば、末法に成仏の法たる三大秘法を持ち、大聖人の仰せのままに自行化他の信心に励むならば、必ず三障四魔が競い起るということがわかるであろう。そしてこの三障四魔に打ち勝った時、始めて成仏が叶う。これが仏道修行の定理なのである。
三障とは煩悩障(ぼんのうしょう)・業障(ごうしょう)・報障(ほうしょう)である。煩悩障とは、我が心の中の貧・瞋・癡により、信心に迷いを生ずる障りである。業障とは、家庭内の問題で信心が妨げられること。また報障とは、自分の生活を左右できる権力ある者が信心を妨害することである。四魔の中の天子魔もこれと同じで、この報障こそ最も大きな障碍である。
さて、この三障四魔が競い起こるということは、持つ法が正法であり、また仏法の実践が本物になってきたという証拠、またこれを乗りこえれば成仏が叶うということを示すものであるから、むしろ喜ばねばならない。
「潮の干ると満つと、月の出づると入ると、夏と秋と、冬と春との境には、必ず相違する事あり。凡夫の仏になる、又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり」(兵衛志殿御返事)と。
賢者は三障四魔の出来をむしろ喜び、愚者はこれによって退転すると仰せられている。されば仏法を実践する者は、魔を魔と見破る見識を持たねばならぬ。これを見破って一段と強き信心に立つ時、始めて魔障に打ち勝ち成仏の境界を得るのである。
そして、魔に打ち勝って自身を顧みれば、魔障が競い起きたことにより、かえって我が境界を変えることが出来たことに気付くであろう。もし魔障がなければ成長もない。信心さえ強ければ、魔はかえって成仏の助けとなるのである。
この原理を法華経には 「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」(授記品)と説き、 さらに大聖人は御自身の実証体験の上から 「人をよく成すものは、方人(かたうど)よりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり。--- 日蓮が仏にならん第一の方人は影信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(種々御振舞御書)と御指南下されている。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第五章より
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