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日蓮大聖人の御遺命
三、大石寺歴代上人の文証
冨士大石寺歴代上人
では、冨士大石寺歴代上人が、異口同音に国立戒壇を叫び続けてこられたその文証を挙げてみよう。
まず二祖日興上人は「広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時、必ず富士山に立てらるべきなり」(門徒存知事)、 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原(あもうがはら)に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」(大石寺大坊棟札)
二十六代日寛上人は「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原(あもうがはら)に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法、乃至、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)
三十一代日因上人は「国主此の法を持ち、広宣流布御願成就の時、戒壇堂を建立して本門の御本尊を安置する事、御遺状の面に分明なり」
三十七代日■(にっぽう)上人は「仏の金言空しからずんば、時至り天子・将軍も御帰依これ有り。此の時においては、富士山の麓・天生原に戒壇堂造立あって…」(御宝蔵説法本)
四十八代日量上人は「事の戒壇とは、正しく広宣流布の時至って、勅宣・御教書を申し下して戒壇建立の時を、事の戒壇というなり」(本因妙得意抄)
五十六代日応上人は「上一人より下万民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節あり、これを事の広宣流布という。その時、天皇陛下より勅宣を賜わり、富士山の麓に天生ヶ原と申すこうこうたる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって…」(御宝蔵説法本)
以上は明治以前の先師上人の御指南である。「国立戒壇」の文言こそ用いておられないが、意はそれを指すこと文に明らかである。
次いで大正以降の歴代上人の文証を挙げる。
五十九代日亨上人は「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華十一号)、 「唯一の国立戒壇すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)
六十四代日昇上人は「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)
六十五代日淳上人は「蓮租は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(日淳上人全集)、 「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日、思いつきで執行されたというものでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を、伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅の勤行怠慢なく、広宣流布を待つ可し』とあるのが、それであります」 (大日蓮三十四年一月号)と。
以上の文証は、大石寺歴代上人が国立戒壇の御遺命を叫ばれた御文の中のごく一部である。およそ血脈付法の正師にして、国立戒壇を叫ばれなかった貫主上人は七百年間一人としておられない。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第九章より
)
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