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-- 国立戒壇の名称放棄の公式決定なる誑惑 --
国立戒壇の名称は不適当
わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。
しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために「一閻浮提(えんぶだい)第一の本尊此の国に立つ可し」(御書全集二五四頁)と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。
日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。
明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。
今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。
創価学会においても、かつて「国立域壇」という名称を使ったことがありましたが、創価学会は、日蓮正宗の信徒の集まりでありますから、わが宗で使用した名称なるゆえに、その“国立”なる名称を使用したにすぎないと思うのでございます。
今日、世間の人々が“国立”という名称を、学会がかつて使用したことについて非難するのは、あたらないと思います。
「日本の国教にするなどと仰せられてはおりません」との、大聖人の身命を賭しての三度に及ぶ国家諌暁の意義を破壊する言明、耳を疑うばかりです。この誑惑については、すでに「御遺命守護」の項で浅井会長による批判を掲載しています。
そしてまた「学会がかつて使用したことについて非難するのは、あたらない」とまでの創価学会への気遣い、まことに痛ましい限りでありました。
これこそ、この国立戒壇否定が、政界進出を果たし衆参両院に議員を多く擁する創価学会が、国立戒壇を奉じることに対する各方面の批判から姑息にまぬがれるためであったということ、なかんずく池田会長の国会証人喚問をまぬがれるためであったこと、がよく表れている部分であるといえましょう。
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