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破邪新聞 昭和五十年七月十日号 (第11号)
猊下 元妙信講について御説法
国立戒壇は本宗の教義ではない
御内意云々はまったくの虚言
元妙信講について
法華講の皆さんが妙縁寺関係の方々を中心に団結して私を初め我が宗門を誹謗する元妙信講の者達と戦っておられることを聞いて本当にうれしく思います。
この数年間、いろいろな出来事もありましたが、とにかく元妙信講の一件ほど不愉快かつ迷惑なことは他にありません。又、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ入らんとしていく度か異流義も出ましたが、しかし元妙信講ほど無体な、そして卑劣なものは例を見ないと思うのであります。
真意は訓諭、説法で明言
およそ人たるもの、自分の信念を述べるに当って、あくまで自分の意見として公にすべきであると思うのであります。宗門の公式見解はこうなっておるが自分の意見はこうであるというように、正々堂々と述べるべきであります。ところが浅井昭衡は、法主である私の名前を利用し、“私が浅井父子だけに内意を打明けた”と宣伝しておるのであります。
浅井個人の考えに私の考えであるというレッテルを張られては、私としてはたまったものではありません。しかもその内容が私が公の席で、手続をふんだ上でそれこそ何度も何度も口がすっばくなるほど繰り返し言明した旨と正反対であるというのですからなおさら許せません。云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになってしまいます。そんなことがあるはずのないことは常識ある方々には、すぐわかってもらえると思います。
仮に私が本心を打明けるにしても、よりによって講頭父子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置けない人物に打明けようはずのないことは自明のしきたりがあり、みだりに人と会うことも難しい地位にあります。そのことを利用して何も知らない人達を“国立戒壇こそ法主の内意である”などとあざむくことは卑劣この上ないやり方であり、宗門史上かってない猊座に対する冒涜であると思うのであります。
ことは私の名誉にもかかることであり放置しておけば宗内のみならず世間までさわがせる結果になりかねませんので私は断固たる措置をとります。とともに、今日、ここに見えられた皆さんは私から直接聞いたことの証人となって多くの人に今日の話を伝えて下さい。
浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓論及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えて下さい。それでもなお迷いからさめず、ぐずぐず云うなら、それは本人の自由で、もはやこちらの関与するところではありません。法主の指南がきけず、浅井の指南を聞こうというそういう人は、もはや本宗の信徒と認めるわけにはまいりません。その旨、はっきり伝えていただきたいのであります。
私には法主として、宗開両祖以来連綿たる法門を厳然と守り、かつ一千六百万信徒の信仰を安穏ならしめる責務があります。その上で仏法のもとにああゆる人々を平等に待遇し、一人残らず成仏することを毎日祈念いたしております。
今、冷静に考えますとき、浅井昭衛という男も、迷える哀れな人物であるがさればといってその狂気じみた妄想のために清浄なる法灯と一千六百万信徒を犠牲にするわけには断じてまいりません。故に私は公平無私な立場で断固たる措置をとりました。だれはばかるところのない私自身の判断であり、それが正しかったことは時がたてばたつほど確信を持って来ております。
(以下、省略)
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以上、細井管長の無慚の説法、ここ御遺命守護記念館に留めおきましょう。
細井管長こそ「一千六百万信徒」を背景とした 池田大作会長の“威圧”に屈し、莫大の“供養”にその心を蕩(とろか)され、たちまちに国立戒壇の御遺命を抛(なげう)ち、正本堂を御遺命の戒壇とする悪義を承認、本宗七百年の歴史においてかつてない御遺命破壊を扶けたのでした。
しかして、純信に諫める一万二千世帯の妙信講へのかかる悪口中傷、およそ「人たるもの」のすることではないでしょう。
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