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日蓮大聖人の御遺命
四、御遺命破壊の大悪起こる
「法主」を籠絡
この大それたたばかりは、池田ひとりではできるはずもない。どうしても時の「法主」 (貫主)の権威が必要であった。
時の「法主」は第六十六世・細井日達上人(以下、細井管長と呼ぶ)。実はこの上人も前述のごとく登座直後には「真の世界平和は国立戒壇の建設にあり」(大日蓮 三十五年一月号)、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華三十五年一月号)、「事の戒壇とは、富士山に、戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 三十六年五月号)等と正義を述べていた。
しかし、悲しいかな池田の強き要請を受けるや、たちまちに国立戒壇の御遺命を抛(なげう)ち、正本堂を御遺命の戒壇とする悪義を承認してしまったのである。
日興上人は御遺誡に「衆義たりと雖(いえど)も、仏法に相違有らば、貫首之を摧(くだ)くべき事」の一条を残されている。--- たとえ数を頼んでの意見であっても、それが大聖人の仰せに違っていたら、貫主は断固としてこれを打ち推かなければならない --- とのお誡(いさめ)めである。
しかるに細井管長は、富士大石寺の貫主上人として命を賭しても守らねばならぬ大事の御遺命を、抛(なげう)ってしまった。池田の“威圧”に屈し、莫大の“供養”にその心を蕩(とろか)されたのである。
「法主」の承認を得た池田は、鬼の首を取ったごとくにこの“権威”をふりかざし、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨を学会の集会で声高に叫んだ。
「いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。ですから、皆さん方は『創価学会は国立戒壇建立が目標である』といわれたら、いいきっていきなさい。とんでもない、こんどの私どもの真心で御供養した浄財によって、正本堂が建立する。それが本門の戒壇堂である。これでもう決定されているのですと」(聖教新開四十年九月二十二日)
この発言、ついこの間まで「国立戒壇こそ悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と叫んでいた同一人物のそれとは、とうてい思えない。この変節こそ魔が入った証拠である。
またこの発言の中に、国立戒壇の放棄が評論家の批判をかわし選挙のためであったこと、「法主」の権威を利用して正本堂の誑惑をなしていることがはっきり表われている。
( 日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第九章より
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