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破邪新聞 昭和五十年十二月三十日号 (第13号)
猊下、御相承の大事について御指南
猊下、御相承の大事について御指南
圓妙院第十七回忌・大東院第三回忌法要で
本日は只今住職のお話しの通り、圓妙院日彰上人の十七回忌でこざいます。又、大東院日明贈上人の三回忌を執行せられまして、皆さんおいで下さいまして誠にありがたく存じます。
最近、圓妙院日彰上人から、何か御相承を受けたというようなことが、頻りに宜伝されております。これは大変な間違いでこざいます。本宗においてはそういうことは七百年来一遍もないのでございます。
たまたまそういう住職が出て、問題をおこしたことがありますが、これは皆本宗から出て行った人でございます。
今、ある講の人が、圓妙院から相承を受けたということを盛んに言っておりますが、この圓妙院という方は非常に記憶力の強い人で、若い時分から大変化儀に明るかった為に、我々もそれをおそわったこともあります。
昭和二十年、六十二世日恭上人が御遷化になった時、隠居さんとして、日隆上人、日亨上人がちゃんといらっしゃったのでございます。その時に次の管長に大部手間をとりました。また、本山も客殿が鳥有に期して非常に困った時でこざいまして、少々のびたのでこざいます。半年位のびまして、その間、文部省の方へ登記をしなければならないので、管長代理として圓妙院を推薦して管長代理になったのでこざいます。それ故に僧正という位になって、御遷化した時には上人となっております。
柿沼師は権僧正で、能化でこざいますから贈上人となっております。だから圓妙院が上人となったからして、御相承がある、というわけではないのです。
日隆上人、日亨上人がちゃんと御相承を持っていらっしゃいました。日恭上人の次に正式に管長となったのが、日満上人でこざいます。日満上人に、日隆上人がちゃんと相承しております。御相承の場所は学寮の本堂でした。
そして、日満上人のあとを、水谷日昇上人が相承をお受けして、それから、堀米猊下から私と来ております。その間に少しも◇しいことは入っておりません。
それをこの妙光寺に、中島師がおられまして、年をとっておりましたので、少し色々のことをやたら喋る人になってしまいました。その時に、ある講の人が圓妙院のところに来て御相承を受けた。などといっております。そういうことはあり得ない。
じゃどういう相承か.中島師は御相承を受けていないんだから、知るわけがないのです。あるいは、化儀の方面からこういうことはするんだということは話したでしょう。それはだれでもわかっておる。若い人は知らないけれども、我々位の年になれはだれでもわかっておる。それを相承だといっておる。圓妙院がいわれたからといってそんなことが御相承であるべきものではこざいません。
本宗においては、固くそういうことを、管長として、法主として、守りつらぬいて来ております。だからそういう講の人の言葉に迷わされないで、やはり信者は、信者として、信心に励んで、一生を即身成仏の境涯で送られることをお願いする次第でこざいます。
また、今日色々、国立戒壇だとか何んとかといって、本宗に非常に背いて、我々を謗法の坊主だと悪口を言っております。我々を謗法の坊主だと言うんなら、向うが我々と宗旨が違うわけですから、そういうものは本宗の者じゃない。
どうかこのわけをはっきりおわかりになって、信心を間違わないようにお願いする次第でこざいます.今日はありがとうこざいました。
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「今、ある講の人が、圓妙院から相承を受けたということを盛んに言っておりますが」とは、創価学会による謀略・宣伝の類であって、妙信講・顕正会に長く在籍するわたしは一度も聞いたことがありません。
しかしてその細井師にあって、「本宗においては、固くそういうことを、管長として、法主として、守りつらぬいて来」たその大事を、突然の急逝によって為しえなかったことでした。
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