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    慶春

 昭和三十五年の新春を慶賀いたします。

 本年は日蓮大聖人様の、伊豆伊東流難第七百年に相当いたします。日蓮大聖人様は「
難来るを以て安楽と意得可きなり」(御義口伝七五〇ページ)といわれました。
 宗門はますます発展途上にありますが、三障四魔紛然ときたるの覚悟をもって、つねに日蓮大聖人の伊豆ご流罪のご苦難を忘れずに終始したいと存じます。

 昨年のフルシチヨフの訪米、本年のアイゼンハワーの訪ソ予定等によって、一応世界は冷戦がとけて、分裂した世界が、一つの世界としての話し合いの場をえたことと、客年の第十四回国連総会において、国連加盟全八十二か国が、共同提案国として、軍備の撤廃をめざす軍縮決議案、大気圏外平和利用に関する決議案が全会一致で採用されたことは、平和をつねに念願するわれわれとして、まことに喜ばしいことではあります。

 しかしながら、ひるがえって国内をみますと、全学連等々のこれからの国家の柱石となるべき人々が、革命前夜のやうな勢をもって行動をしていることは、ただただ寒心にたえないものがあります。
 畢寛するに、これは、平和に対する科学的歴史社会学的な理念のみあって、内心に根ざすところの宗教的な安心あるいは信心の欠如というものが、今日、日本の社会不安をかもし出していると思います。

 「
万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず雨壌を砕かず」(如説修行抄五〇ニページ)と日蓮大聖人は平和な仏国士建設を唱えられておりますが、広宣流布を念願とする日蓮正宗の僧俗は、ともども一致協力して、真の世界平和は本門戒壇の建設にありと確信して、本年もますます折伏行に徹底まい進せられんことを廟うものであります。
                                    昭和三十五年一月一日
                                    大日蓮




 この昭和三十五年・登座直後の、大日蓮誌における「慶春」においても、先の大白蓮華誌と同様に、
「国立戒壇」の語はなく、「真の世界平和は国立戒壇の建設にあり」の言葉は、「本門戒壇」と改竄されていたことでした。

 では、いつから創価学会における国立戒壇の否定が始まったのだろうか。すでにこの、昭和三十九年一月一日発行の「日達上人御説法集」に上記の改竄が見られる以上、昭和三十八年にはその方向が創価学会において内々に模索されていたことでしょう。
 しかしあれだけ大々的に国立戒壇をして、「創価学会の唯一の大目的」と叫んできたことでした。会員をどのように説得するか、端的にいえば欺くか、その機を池田会長はうかがっていたことでしょう。

 そしてそれがいよいよ表面に表れたのが、
昭和三十九年七月二十八日でした。池田会長はこう述べます。
 「
それで『創価学会は国立戒壇をめざしているからよくない』このように陳腐な論議をしております。まったくナンセンスのかぎりであります。
 (略)
 御書には“国立戒壇”ということばはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと“国立戒壇”ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしゃったから申し上げたことも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも“国立戒壇”ということははないのです。“戒壇”といえば“
本門戒壇建立”となるのです。
 (略)
 戸田先生は『本尊流布が、信心が、トウフである。戒壇建立はオカラである。カスのようなものだ』このように何度もおおせになっておりました。その本質を、皆さん方もよく知っていただきたいと思います。戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます
」(聖教新開、昭和三十九年七月二十八日号)と。

 ここには注目すべき、二つの意図が読みとれます。一つは、マスコミ・評論家からの創価学会は国立戒壇をめざしているからよくないという批判を回避することが、その本音・動機であるということ。二つには、この時点では国立戒壇否定を急ぐあまり、戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない」としていることでした。
 
それにしても、これまでの「創価学会の唯一の大目的」をして、カスのようなもの・石碑みたいなしるし・従の従・形式の形式とは、よく言ったものでありました。そして、このいささか乱暴な観測気球に対する創価学会員の反応をひそかにうかがいつつ、「だいじょうぶ、これで行ける」と読んだことでしょう。

 並行してこの昭和三十九においては、その後もしばしの間・従来通りの正攻法の論理で国立戒壇に対する世間の批判に、対峙・反論していたことでした。
 幹部の一人である青木享の名で、「
学会の目的はただひとつであり、それは広宣流布といい、王仏冥合といい、国立戒壇建立といい、ぜんぶ同じことを指しているからである。広宣流布が達成されれば、すべての人は御本尊を信じて個人の幸福をうちたて、同時に民主国家であるならば、政治家もまた日蓮大聖人の教えを根本にして政治活動を行なうのである。これは王仏冥合の姿にほかならない。そうなれば、日蓮大聖大の御遺命である戒壇建立の条件(王臣一同に三秘密の法を持ちて)がそうであるから、とうぜんの結果として、民衆の総意によって戒壇が建立されるのである。民主国家における民衆の総意は、同時に国家の意思であるから、それが国立戒壇と呼ばれても何ら不思議ではない」(大白蓮華、昭和三十九年十一月号)と。

 もちろんこれは、青木氏が池田会長に反旗を翻したわけではなく、一気に急カーブを切ってその変化の重大さに会員が気付いてしまわぬよう、こうして従来路線をも述べつつ様子をうかがいながら、新規路線に移行しようとする意図があったのでありましょう。
 さて、これがおそらくは創価学会における 「
唯一の大目的国立戒壇」への、最後の言及となったことでしょう。そしていよいよこの年・昭和三十九年の十一月十七日、選挙にとって大障害となる国立戒壇を創価学会として徐々に放棄しつつ、池田会長は公明党を設立したのでした。

 こうしてこの昭和三十九年という年は、創価学会の国立戒壇放棄のターニングポイントとして、着目すべき年でありましょう。一冊の書の改竄問題から、こうしたこともまた見えてくるのでした。
 しかして
宗門にあっては、ただ創価学会の弘通の拡大・進展にのみ心を奪われ、前年には阿諛・追従の「訓諭」まで与えて、御遺命破壊の事態に至るこうした前兆に気付くこともなかったのでした。

                             ( 平成十三年十二月七日、櫻川 記 )


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