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仏教手ほどき ( 仏教手保登記 )
其四、本門の戒壇
( 義の戒壇と事の戒壇 )
本門の戒壇とは本門の本尊を安置し奉る道場でありまして、之に義の戒壇と事の戒壇との二つがあります。
義の戒壇と申ますは、一閻浮提第一の大御本尊の御写しを安置し奉る道場でありまして各末寺教会並に在家の道場が夫(それ)であります。
事の戒壇と申ますは、之ぞ一閻浮提第一の大御本尊を安置し奉る道場を申すのでありますが、之は未だ何れの処にも実在してはありません。
未はなぜかと申ますと、此事の戒壇と申まするは、中々容易ならぬ道場でありまして、愈々此大聖人御弘通の事行の南無妙法蓮華経が世界中に広宣流布して所謂一天四海皆帰妙法の暁、王法と仏法と冥合して一と成り、其時の主権者が戒壇堂を御建立せられ、茲に初めて本門の大御本尊を安置し奉るの道場、之が即ち事の戒壇でありますから、大法広布の暁に至らざれば実現せぬ道場であります。
夫迄は此大御本尊は富士大石寺の御宝蔵に秘蔵し奉りて、其時をまたせ給ふのであります。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
本門の戒壇において、「義の戒壇」と「事の戒壇」の二つの了解があること、こうして本宗においてはあたりまえのように述べ・語り伝えられてきたことでありました。
さて後に昭和四十五年以降になると、池田会長に迎合した宗門は「法体が事であるから戒壇の本尊在すところは事の戒壇である」などという、どうしようもない無理目の屁理屈を押し通しては「よって正本堂は事の戒壇である」と云って憚りませんでした。
しかして、顕正会の諌暁によって既に正本堂の誑惑が崩れたいま、もはや建設中の奉安堂をして宗門とても決して「事の戒壇」とは云わないことでありました。誑惑不久とは、このことでありましょう。
余談ですが、この昭和三年という年には、六月に目白商業学校校長の職にあった常在寺法華講の三谷素啓の折伏により牧口常三郎が日蓮正宗に入信。同じ月に、牧口氏に私淑していた戸田城外(後に城聖)も、入信しています。
牧口氏は常在寺の直達講にも参加したことでしたが、そこで持論の「価値論」を宣揚したことについて、直達講の三谷素啓講頭から法門逸脱の注意を受けたことがあったと云われます。
(
平成十四年二月二十四日、櫻川 記 )
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