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    国立戒壇論の誤りについて

 
四、国立戒壇論における国家観の誤謬

  (
王法イコール政治をふくむ
             あらゆる社会生活の原理


 したがって、もし仏法が社会に働きかけ、深く広い影響力を及ぼして行こうとすれば、政治権力に的をしぼることが必要であり、又、それ以外にはなかったのである。
 ところが、前述のように、現代の社会構造ないしその価値観は極めて多元化、多様化の様相を呈しているのであるから、中世国家の社会構造に対するような方法でやっていては、実態を無視したものとなり、何らの実効性をもちえないことは明瞭である。

 かかる現状を認識した上で、今日、王法の解釈をするならば、王法が政治内容だとするのも、なお不充分であり、「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」とならざるを得ないのである。なお、大聖人の御書の中には、仏法が、社会のいかなる面に影響を与えていくかを示唆された御文が散見される。
 一例をあげるならば、減劫御書に「
智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人はしらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(全 一四六六)との仰せがある。

 この御文は、法華経の「
実相と相違背せず」これを釈した天台の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経釈を引用して具体論を述べられたものである。世間の法が、実相たる妙法と違背しないというのが、法華経の精神である。それは、世間の法の根本が、人々を幸福にするためであり、この、人々を幸福にするという精神が仏法だからである。
 したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。「世間の法より外に」ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである。

 その後の事例は、たとえ、仏法を知らなくとも、民衆の苦悩をとどめ(抜苦)あるいは民衆に楽を与えた(与楽)慈悲の指導者は、内心に仏法の智慧をさしはさんでいることを示されたものである。
 ここに、王法という言葉はないが、「世間の治世の法」というのが、王法にあたる。したがって大聖人の用いられる王法には、世間法といった意味合いがこめられていることにも注目すべきである。

 (
本章における論述の中で、政治、憲法論にかかる部分については、宮沢俊義博士の著書、および、註解日本国憲法、憲法講座等の諸文献に負うところが多いことを、念のため付言いたします



 「かかる現状を認識した上で、今日、王法の解釈をするならば」とは、“価値観の多元化・多様化の様相”という<他義をまじえ>て王法を解釈(曲解)するならば、ということでありました。
 そしてそのように<他義をまじえ>た結果、どこまでも“王法”の概念を統治主権から遠ざけようとして、阿部教学部長は「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」やら「王法は世間法一般」だ、等と言い出すのでした。

 先には、大聖人の御抄の“王法”の用例に則して、「“王法”は二通りの意味に用いられているといってよい。第一は、文字通り、王の法であり、王のなす政治内容という意味である。(略) 第二は、王そのもの、つまり、国家の最高権力者の意味に用いられている」と、阿部教学部長ご自身が述べたことは、もはやどこかにお忘れなのでありましょう。
 “イコール”とは、それ以上でもそれ以下でもなく・まったく等しい、という意味でありましょう。「政治をふくむ あらゆる社会生活の原理」という<曖昧模糊>とした原理をして“王法とイコール”とするなら、先の「“王法”は二通りの意味に用いられている」の言明に違背し、支離滅裂の呈というべきでありましょう。

 そしてその矛盾撞着の帰着するところ、阿部教学部長にあっては「大聖人の用いられる王法には、世間法といった意味合いがこめられている」と、“王法と世間法”とをあえて混同し同一視するのでありました。

 阿部教学部長は<他義をまじえ>たうしろめたさから、“王法”と“世間法”の<同一視>を何とか補強しようとこころみて「減劫御書」を引用するのでしたが、迂闊にもそこで肝心の“御文”を読み違えて、教養のなさを世に晒したのでありました。減劫御書の御文は、「世間の法より外に仏法を行(ぎょう)ず」ではなく、「世間の法より外に仏法を行(おこな)わず」と読まなくては、意味が通らないことでしょう。

 この御文の意は、“
智者は世間の法以外には、仏法を行じない”ということ、すなわち世間の法として行じていることが、そのまま仏法の道理に叶っているということであり、故に天台の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せずの言明と通じ、次文の太公望の故事において「此等は仏法已前なれども、教主釈尊の御使として民をたすけしなり」と結せられるのでありました。
 これ、まさしく「
王法仏法に冥じ 仏法王法に合し」を支える、論理的背景に他ならないことでありましょう。

 “「世間の法より外に」ということは、世間の法は世間の法として行じ”という、阿部教学部長の自身の「読み」に違う(反対の)御抄の解釈は噴飯ものでありました。
 阿部教学部長は、“王法”と“世間法”の「同一視」の証明の為に、「仏法」と「世間法」の関係を示した減劫御書を引いて“御文”を読み違えただけでなく、そもそも「仏法」と「世間法」の“基本的関係構造”を取り違えていることを、自ら開示したことでありました。

                          ( 平成十五年三月三日、櫻川 記 )


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