|
国立戒壇論の誤りについて
六、三大秘法抄の戒壇の文意
( 「勅宣並に御教書」は必要ない )
次に「勅宣並に御教書を申し下して」とは、戒壇建立の手続を示されたものであろう。
ところでこれは、国家が戒壇を建てるという勅宣並びに御教書を出すのか、それとも、宗門で本門戒壇を建ててもよいという許可を勅宣と御教書という形で出すのかという問題がある。歴史上の事例から考えると、まず後者の方ではなかろうか。
かの戒壇の歴史で述べたごとく、梵漢和の三国における戒壇について、強いて一往その建立の趣意より名称を付すれば、僧立、宗立、官立、王立、といろいろに呼ぶことができよう。但しこれもその出資者のいかんによって定めるのか、建立の発願者によるのか、官の命によるや、はたまた官の許可によるや、官供によるや、その時々の趣旨実状において、その何れを採るかはさらに一定できぬものがある。
このなかで、勅によること、及び官費と思われることからして、東大寺の戒壇が国立的といえばえるが、これも厳密にいえば国王の個人的造立である。大聖人が、しばしば先例として引用される叡山の戒壇は、義真の建立(実質的には伝教大師の努力)であって、官の許可並びに天皇の詔が下りたのみである。大聖人の場合も、この叡山の先例にならって「勅宣並に御教書」と仰せられたのではなかろうか。
叡山の場合は、平安時代初期であったので勅宣のみであって御教書はない。御教書とは平安中期以降に行なわれた書札用の文書の一種であり、平家当時の用例では、天皇以下公卿たる三位以上の出す書札用文書をとくに御教書と呼び、摂関政治以降は公的性質を帯びるようになったという。鎌倉幕府が開けてからは、将軍の命令を伝える文書として広く用い、六波羅や鎮西の採題も出すようになった。
大聖人が、勅宣のほかに御教書をあげられたこと自体、当時の時代背景を考慮されてのことと思う。したがって、現代には、現代の時代状況を考えなくてはならない。勅宣にしろ御教書にしろ、一定の制度の下における一定の地位にある者の発する公文書という性質のものであり、これを日蓮大聖人が絶対不可欠のものとされるはずがない。
今日においては、もはや大聖人の時代におけるような勅宣はありえない。また、当然、御教書もない。したがって、現在もなお、こうした古い時代の形式に固執し、戒壇の本意を失うことがあるとすれば、それは誤りというべきである。
もし、これにあくまで固執するなら当然、憲法改定が必要になる。これは、まさに時代逆行であり、また宗門としてこれを主張することは、宗教の立場と政治の立場を混同することになる。宗教の立場は直接政治に容喙することでなく、宗教自体の徳化において政治その他を善導するにある。大聖人の御書もこの御こころに貫かれており、宗門の理想の達成が、直接の政治の場としての憲法改定を前提とせねばならないということは、まさしく大聖人の仏法の本意に背くものである。
それでは、現代においては、この「勅宣並に御教書」は、どのように考えるべきか。結論からいえば、そうした文書は現代ではありえないし、必要ないのである。消極的意味からすれば、先の叡山等の例から考え合わせて、一宗としての正統かつ独自の主体性を獲得せんがためと解することができる。これはすでに現憲法の信教の自由の保証によって実現されていると見てよい。事実、この結果、戦後民主主義下になって、はじめて、宗門始まって以来の、幾百万人にも及ぶ未曽有の布教が達成されているのである。また、積極的な意味においては、民衆に対し、また各分野の指導者に対し、大聖人の仏法の偉大さを知らしめ、理解せしめていくことのなかに、この御文の精神は含まれると考える。
これについて、勅宣を天皇の国事行為としての承認、御教書を国会の議決、行政府の意思として国立戒壇を主張することの誤謬は、すでに詳述した通りであるので、ここでは略す。
阿部教学部長は、「勅宣並に御教書」の戒壇建立の必要条件をして、「信教の自由」や「建築許可証」(悪書U)に相当する故 条件はすでに満足しているとしたり、ここでは「必要ない」とその条件自体を否定するのでした。
誑惑なるが故にその解釈は悲しいかな、さまざまにブレて自語相違します。一貫しているのは、大聖人が厳として定められた戒壇建立の条件に背き、正本堂を御遺命の戒壇と位置づける“一点”でありました。
叡山の戒壇建立における勅許の<意義>とは、諸宗ことごとくを叡山の末寺と為すべくの、“国家意志”の表明に窮まるのでした。その戒壇建立の前提とは、延暦二十一年一月の公場対決でした。「帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う。彼の学者等、始めは慢どう山のごとし、悪心毒蛇のやうなりしかども、終に王の前にしてせめをとされ、六宗・七宗一同に御弟子となりぬ」(撰時抄)と円定・円慧において諸宗は、すでに伝教大師に帰伏したのでした。
しかして未だ「戒」においては伝教大師の弟子ではなく、叡山の「戒壇建立」の意義は日本の諸宗にあって円定・円慧のみならず、「戒」においても法華の「円頓戒」に帰伏・統一したということでありました。
阿部教学部長は、創価学会からの“宗門がつぶされる”とする脅迫に“護法の精神”なく屈して「本門の戒壇」の法義を歪曲しながら、厚顔にも「一重大難之れ有るか」(富木殿御返事)の叡山の「延暦円頓の別受戒は日本第一」(撰時抄)をして、わざわざ“義真の建立”と云いつのり かつは“官の許可並びに天皇の詔が下りたのみ”、などと貶めるのでした。
そして “勅宣にしろ御教書にしろ(略)これを日蓮大聖人が絶対不可欠のものとされるはずがない”と大聖人の厳命に背き、“古い時代の形式に固執”やら“時代逆行”と罵り、“宗教の立場と政治の立場を混同”と論理をスリ替え、“そうした文書は現代ではありえないし必要ない”と己義を構え、以て御遺命の戒壇建立の御意を滅失するのでありました。
大聖人が説示された戒壇建立の意義とは、「天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし(略)法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一」(撰時抄)、「かの漢土九国の諸僧等は、円定円慧は天台の弟子ににたれども、円頓一同の戒場は漢土になければ、戒にをいては弟子とならぬ者もありけん、この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり悪人なり」(同)と。
さらに、「終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取って末寺と為す。日本の仏法唯一門なり、王法も二に非ず。法定まり、国清めり」(四信五品抄)、ということでありました。
「迹門の戒壇」にしてなお然り、いわんや「本門の戒壇」においてをや、でありましょう。さればこそ、「但し定・慧は存生に之を弘め、円戒は死後に之を顕わす、事相たる故に一重の大難之れ有るか」(富木殿御返事)との仰せがあるのでした。もし「勅宣並びに御教書」が“信教の自由”や“建築許可証”(悪書U)や“必要ない”のなら、どうして「一重の大難」が蜂起しましょう。
文底下種・三大秘法の円定・円慧において、”富士大石寺を本寺と為し・諸寺を取って末寺と為し、日本の仏法・唯一門”の暁に、はじめて本円戒たる「本門の戒壇」を建立せよということを、宗祖・大聖人は「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して」と、後世に微塵の誤解も生ずることなきよう、嚇々たる言葉を以て明示・遺命されたことでした。
そうであってこそ、ついには「法定まり、国清めり」となること、でありましょう。しかして宗門は、“争子の諫め”あるにもかかわらず管長以下、創価学会の誑惑に与同。正本堂をして「本門の戒壇」と国家を欺き、「広宣流布の暁に一期弘法抄に於ける本門寺の戒壇たるべき大殿堂」と信徒を欺いて蔵の宝を収奪し、御遺命を歪曲・滅失して大聖人に背き奉ったのでありました。
正系門家における貫首と学頭とによる、かかる法義歪曲と誑惑与同の結末は
「法定まり国清めり」どころか、今日の宗門の悲惨な四分五裂の状況への帰着でありました。「一切は現証には如かず」(教行証御書)、また「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)と。
しかるに、当事者・責任者たる阿部管長に未だその法義歪曲と誑惑与同への真摯な懺悔がないこと、あたかも一闡提の如くでありました。「若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有つて 悪の言を発し正法を誹謗し 是の重業を造つて永く改悔せず
心に懺悔無らん、是くの如き等の人を名けて 一闡提の道に趣向すと為す」(立正安国論)と。
また、「若し四重を犯し五逆罪を作り 自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く 肯て発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賎して言に過咎多からん。是くの如き等の人を亦た、一闡提の道に趣向すと名く」(同)と。
では “戦後民主主義下”においては、“時代逆行”であり“古い時代の形式”への固執にして“必要ない”とする「勅宣」の意義を、阿部教学部長に少しお教えしておきましょう。
日本国憲法 第一章の第六条【天皇の任命権】には「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する」とされ、第七条【天皇の国事行為】には「憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること」、「国会を召集すること」と、天皇の果たすべき重要な役割が定められています。
日本国の司法・立法・行政の三権に渡って”任命・召集”し、“憲法・法律・政令・条約“を公布するという「権威」を、天皇が現在も有していることが知られます。一国同帰の暁、天皇による本門戒壇建立の「公布」は不可欠な要件として、現在の憲法の枠組みに於いても欠かすことができません。
「権力は正統性がなければ権力たりえない」と“権力の正統性”を論じたのはM・ウェーバーでしたが、日本の永い歴史において権力に正統性を賦与し得た「権威」は天皇のみであり、現在もその構造は不動にして変わりません。
いわんや、文底下種の仏法上の天皇・皇室の意義とは、三大秘法の仏法を守護し奉る日本国の“本有の王法”でありました。されば相伝書には、「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は、我国に天下り始めし国は出雲なり。出雲に日の御崎と云ふ所あり。天照太神始めて天下り給ふ故に日の御崎と申すなり」(産湯相承)と。
また、「偏に広宣流布の時・本化国主御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし」(富士一跡門徒存知の事)と。
( 平成十五年三月二十七日、櫻川
記 )
戻る 次
|
|
|