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国立戒壇論の誤りについて
六、三大秘法抄の戒壇の文意
( 「最勝の地」とは大石寺 )
次に 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可きものか」の文中の「最勝の地」とは、一期弘法抄に「富士山」とあるごとく、富士の麓の地であることは明らかである。
現在の富士大石寺を中心とする広々たる富士の霊地に、大聖人の戒壇建立の本意があったと拝する。
本門の戒壇は、一宗の中心であり、かつまた民衆救済の根本道場である。現在、本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。
凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を紹継され、時に当っての仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徴するも大石寺であることを拝信すべきである。
阿部教学部長は “戒壇建立の地は、正本堂の意義に徴するも大石寺であることを拝信すべき”と、正本堂をして「本門の戒壇」とすべくの「本音」をここに吐露します。
しかして本宗の伝統法義において「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、富士山南麓の勝地・天生原であることは、歴代先師の伝承でした。
されば 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」(大石寺大坊棟札)、「事の戒壇とは即ち 富士山・天生原に戒壇堂を建立するなり」(日寛師、報恩抄文段)、「『本門寺に掛け奉るべし』とは、事の広布の時、天生原に掛け奉るべし」(日量師、本因妙得意抄)、「天皇陛下より勅宣を賜わり、此の大石寺より東の方富士山の麓に天母原と申して曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇御建立ありて」(日応師、御宝蔵説法本)と。
これこそ 僧俗一致して富士の伝統であったことは、またこうした文書によっても知ることができます。
「況んや富士の山腹に戒壇堂建之の予定地を卜して六万坊を建立すべき天母ヶ原と云う大原野を選定せられたること、師弟不二・唯仏与仏の御境界にまします日興上人にして始めてなし給はれし御事であります」(「仏教手ほどき」、中村徳之進)と。
さて、ここで細井管長の誑惑にも、ふれておきましょう。妙信講が提出した「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を受けた細井管長は、昭和四十五年四月三日 浅井講頭等を呼び本山・対面所で、こう述べたと云われます。「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」と。
しかしその後、池田会長の誑惑に与同。“天母山・天生原は要山・日辰の説だ”と自山の伝承を嘲り、狂おしくも歴代先師をして“日辰の亜流”と罵ったのでした。
( 平成十五年三月三十日、櫻川
記 )
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