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    矢野氏に対するオマジナイと
    矢野氏の反発


 
さて、昭和四十七年三月からかかわり合うことになった「妙信講」事件で、私は次第に脇役から中心に押し出されていった。

 「
妙信講問題というのは、主に、正本堂の意義に関して争われた。
 昭和四十年十月、創価学会は総本山大石寺に正本堂を建立、御供養するためということで全学会員に呼びかけ、三百五十五億円を集めて世間を驚かせたが、以来、毎年、
仰々しい宣伝をくりかえしながら工事を進め、昭和四十七年十月十二日には落慶法要を行ない、大石寺に伝わる戒壇の大御本尊を御遷座申し上げる予定になっていた。

 この正本堂が、日蓮正宗の
教義上どのような定義を与えられるものかについて七年の間に紆余曲折があった。

 昭和四十五年の言論問題のとき、国会で「
創価学会は、国立戒壇建立ということを目的としており、つまり、みずからの国教化と国家の手による戒壇建立を目的とし、そのために公明党という政党を作って政治活動をしているが、これは憲法の政教分離の原則に違反するのではないか」という趣旨の質問が行なわれた。
 これにもとづいて、所轄官庁である東京都宗務課より創価学会に照会がなされた。

 これに対する創価学会側の回答は、「
現在、建設中の正本堂が、日蓮大聖人御遣命の事の戒壇であり、これは、信者の浄財による民衆立であって、国家権力とは関係ない。したがって、国立戒壇とか国教化といった意図はまったくない」という趣旨だった。

 この回答文は、当時蒲田にあった東京第一本部で作成された。たずさわったのは北条浩、秋谷栄之助、矢野絢也の各氏と私、そして、中央大学法学部教授・橋本公旦氏が加わった。橋本氏は、たまたま知人の紹介で、まったくの好意からいろいろとアドバイスをしてくださったのであって、言論問題以外で直接創価学会とかかわりがあったことはないことを、氏の名誉のために付け加えておく。

 このとき矢野書記長が、いささか傍若無人な発言をして、橋本氏が気分を悪くされた場面があり、そのことが紹介者を通して池田大作氏の耳に入った。池田大作氏は、「
かかるときに、不真面目である」と激怒し、早速箱根に矢野書記長を呼びつけて叱責し、「お前は頭が狂っておる。治してやろう」と、皆の居並ぶ前で数珠によるオマジナイをほどこした。
 それは、マジナイというよりは
数珠による殴打ともいうべき乱暴な行為だった。十数人の最高首脳がいる前で、矢野氏をみんなに向かせて正座・合掌させ、池田氏がうしろから題目を唱えながら、数珠でビシッ、ビシとひっぱたくのである。

 それ以来、池田氏はことあるごとに側近幹部に、「
矢野はもともと精神病の気があるんだ。学生時代共産党をやっていて、生命もにごっている。竹入たちとは違うんだ」と言った。
 もちろん矢野書記長は、池田氏にあまりよい感情を持たなくなった。学会幹部にはめずらしいクールさと、大阪人らしい現実主義を身につけて、政治の世界でさんざんもまれてきた矢野書記長が、熱に浮かされたような“
池田礼讃教団”の中で異質と見られるのは当然の成り行きといってよかった。

 東京に帰って数日後、公明党本部の一室で私と二人で話し合ったとき、「
君い、なんぼこちらでやろう思うたかて、相手のあることやで。世間の理屈を押しのけて、手前ミソばかりやれいうても、でけへんもんはでけへん。君ら側におるもんは、そのへんをよう心得てコントロールしてくれんと、公明党はつぶれるで」  “二度とは言わん”との前置きつきであったが、矢野書記長はこういった。

 池田氏自らの失敗で惹起した言論問題を、池田氏の言うとおりに押さえろといっても無理だ、ということをはっきり言ったわけである。
 そのときの私は、もちろん驚いたし、けしからんと思った。池田氏を
御本仏の再誕とあがめ、池田氏を護って馬前に散ることが最高の名誉と心得ていたのが、当時の最高幹部すべてであったはずである。その一人であった私にとって、大先輩幹部の一人から、このようなセリフを聞こうとは夢にも思わなかった。しかし、いまになってみれば、それはしごく当たり前のことだったのである。



 
政府より創価学会になされた「国立戒壇に関する照会への回答が、どのように作成されたのかが具体的に示されています。

 そして、池田会長が公党の現職の書記長を正座させ、幹部の居並ぶ前で殴打し、精神病の気があるだの生命もにごっているだのと言い放つ
独裁・専横ぶりは、かの麻原こと松本智津夫の教団内でのふるまいを思い出させます。

 山崎元顧問弁護士自身が、池田氏を御本仏の再誕とあがめ、池田氏を護って馬前に散ることが最高の名誉と心得ていたのが、当時の最高幹部すべてであったはずである。その一人であった私・・」と、当時の心情を素直に語っています。
 しかして今日、教団の幹部や与党の一角を占める党幹部たちと、なお未だにこうした関係・構図が変わっていないのであろうことは、容易に想像ができましょう。

 池田名誉会長の逆鱗にふれた竹入元委員長が、いまや極悪人呼ばわりされている一事をとって見ても。




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