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闇の帝王、池田大作をあばく
より強烈になった独裁
池田氏が野崎氏を引き合いに出したとき、私は昭和五十四年五月頃のことを思い出した。野崎氏の態度がそのころ急変したのだ。
当時、池田側近ナンバーワンになっていた野崎氏は、五十三年九月から、私の後見役をつとめ、困難な学会内の調整をよくやった。
「私の生涯の念願は、池田先生の一生を伝記として書き表わし“現代仏陀論”として後世に残すことだ」というのが口グセの、ガリガリの池田本仏論者であった彼が、「誰よりも池田先生絶対論の信奉者であるこの私が、誰よりも先走って相対化の作業を進めなくてはならない立場にされてしまった。皮肉な運命ですよ」と自虐的に語っていたが、まさにその通りだった。そういいながらも、強い責任感で、内部のタカ派の意思を抑えてよくやった。若手僧侶にもそのシンの強さは、当時、評価されていた。
その彼が、五月十日頃になると、「友さん、私はまたカジを右へ切ります。今は、池田先生擁護を徹底してやらなくてはならならない」と宣言し、今まで自分が進めてきた路線を自らぶちこわすような言動を、あからさまにとり始めたのであった。きっとあのとき、池田氏から、「お前はオレのクビ切り人だ」と散々やらたに違いない。
事情を知らなかった私は、それ以来、彼を軽蔑した。しかし、十一月の池田氏との話で謎が解け、軽蔑は同情に変った。
似たようなことは、そのころたくさんあった。辻武寿副会長が池田氏から、「お前はオレが追いこまれている四月に、『これから、抜本的にやり方を変えなくては』などと意見したな。いつからそんなにえらくなった。いまに土下座して謝らせてやるから覚えていろ」と総括されたという。
和泉覚副会長は、神奈川文化会館に呼びつけられて、どなりつけられ、真っ青になった。
そもそも、五月三日が終ったとたんに池田氏は、「五月三日は失敗だった」と騒ぎ出した。「北条の話に、『池田先生の路線を継承して』という一語がなかった。原稿をつくった宮川清彦(当時総務、青年部長)の失敗だ。オレは秋谷の原稿を見て、その中にはこの一言を入れておいた。将来、光るぞ」
原島崇前教学部長の話によると、池田氏は、「新執行部は私宛に一札、誓約書を入れるべきだ。“池田先生を永遠に師匠と仰ぎます”と誓うべきだ。規則だ、体制だと騒いでも、魂を失い、原点を見失っては、学会はおしまいだ。魂は私なんだ」と執行部にいったらしい。
これに応えて、北条会長以下新執行部が差し出した誓約書に、「私達は、池田先生から学会の全資産を預かり、管理させていただきます」という文言が欠けている、といって、またまた激しく総括した。
こうした調子で、五月三日から二週間もたたぬうちに、池田氏は完全に全権を掌握した。
それはもはや、院政というよりは“直政”であり、責任はロボット化した執行部が一切かぶり、池田氏には及ばず、本人には権限だけという形になった。独裁はある意味で、より強烈になったといえた。
その上、周囲は辞任劇の際なぜ反対しなかったかという総括をくらって、会長辞任前以上に、池田氏の機嫌をとることに汲々としていた。
辞任後も、池田専用施設には誰も手をつけようとしなかったし、庶務室、専用車輌その他池田氏周辺には何ひとつ変化が起こらなかった。
毎日の聖教新聞紙面もふくめて、決裁は相変らず池田氏がやったし、人事も必ず池田氏が決めた。池田氏の権力は実質は強化されこそすれ、決してそがれはしなかったのである。ならば、池田氏に何も文句をいうスジはないはずであったが、やはり、不安と不満のタネはあった。
池田氏にとって、不安のタネとは、聖教新聞や大きな会合に顔を出せないということだった。長いこと裏に隠れていると、末端会員から忘れられはしないかという不安だった。
あらゆる手段を使って、自分ひとりだけを傑出して見せるように演出し、会員の人気をつちかって、それを背景に、中枢における絶対権を確立してきただけに、大衆の前に顔を出せないとなると、“去る者日々に疎し”で、時とともに、組織から池田色が薄れて行く。末端の「先生、先生」の声が次第に少なくなって行くことを、一番敏感に感じとり、焦ったのは、他ならぬ池田氏自身だった。
そこで、何かと口実をもうけては、聖教新聞の紙面に顔を出したがった。反面、「執行部をあまりクローズアップするな」と、北条氏以下が新しいカリスマとなることを、牽制し抜くことも忘れなかった。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
昭和五十四年五月三日の創価学会本部総会において、池田新名誉会長は殊勝な発言をしたことでありました。
そして池田氏の、創価学会会長と法華講総講頭辞任という劇的な人事が断行されたことでしたが、創価学会の内部においてはこうして、野崎・辻・和泉・秋谷・北条といった幹部諸氏がことごとく池田氏の個別撃破・総括に屈服していたのでした。
こうして五月三日から二週間の後には、創価学会における池田名誉会長の独裁は、むしろ以前より強烈になったことでありました。
それからわずかの後、細井管長は急逝されたのでした。山崎元顧問弁護士は、そのときの様子をこう語ったことでした。「菅野尊師に『寝たままでいいから、対面所に布団を敷いておくように』と指示された。そして翌二十二日の早朝、御遷化あそばされた」、「日達上人は、事実上の“指名”なり、心づもりなりを周囲の人々に話されたことはあるが、”御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、誰もいなかった」(山崎正友元顧問弁護士手記 週刊文春、昭和五十五年十一月二十日号)と。
(
平成十四年三月一日、櫻川
記 )
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