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闇の帝王、池田大作をあばく
絶対者として君臨する夢
昭和三十七年からはじまった学生部幹部相手の“御義口伝講義”の際に、池田氏は、「近く党をつくる、一挙に衆議院に出る。五回選挙をやれば昭和五十四年、七つの鐘の終るころ、過半数を制し、天下をとる。王仏冥合は政治戦である」と打ち明け、私達の決意をうながした。
また、「矢野、お前は大臣にしてやるぞ」「多田(省吾)、お前は総理だ。北条とどちらが良いかと思ったが、お前の方がデカイからな」などと、閣僚の辞令を勝手に出しては、悦に入っていたのだった。
池田氏自身はというと、天皇のような立場に立つという考えと、みずから総理大臣の椅子に坐るという考えと、二通りあって、まだ決めかねていた。
「広宣流布を達成したら、公明党を二つにわけて、交互に政権をとらせる。イギリスの二大政党みたいにやらせるのだ」と語る一方、「戸田先生は、よく、”一ぺん大(池田氏のこと)を総理にしたい”といっていたんだ」と左右に何度も語っていた。
実際、昭和四十三、四年頃、渡部通子氏らが時局講演会で、「池田先生を、東京一区から出ていただいて公明党総裁におむかえしよう!!」と叫んでいた。昭和四十年頃の「太白蓮華」には、「広宣流布の時、開かずの門を開いて、国主が、その門をとおり、正本堂に入るが、この国主とは、法華講総講頭であり、つまり私である」という趣旨の池田氏の談話が掲載されている。
池田氏のいう“王仏冥合”とは、池田氏を本仏とする“政教一致”国家であり、絶対者として、みずからが日本国に君臨する夢であった。(略)
こうした絶頂期における池田氏の夢想が、今見ると荒唐無稽に思えるかも知れないが、当時の絶対支配者ぶりを知る人にとっては、笑いごとではない迫力をもっていたのである。公明党は、要するに池田氏の天下取り構想の手段にすぎなかった。
はじめ、「我々の目的は、国立戒壇の建立である。そのため、参議院にだけしか出ない」といいつつ、昭和三十九年に、突然、「民衆の総意で、公明党をつくり、衆議院に進出する」と宣言し、やがて、”国立戒壇論”をあっさりとおろしてしまった。それもこれも、すべて池田氏の野望のためであり、政治も宗教も、池田氏にとっては、野心を果たすための道具だったのである。
この池田氏の構想は、言論問題という挫折によって、一時中断せざるを得なかった。池田氏は、国家権力ヘの野望を、ノーベル平和賞への野心に置きかえて、著名学者や外交官との対談で名誉欲を満足させていた。(略)
しかし、昭和五十年暮より、創価学会が立ち直りのきざしを見せるや、「また天下をとる見通しが見えてきた」と宣言し、再び権力へ向かって突進をはじめた。このとき作られたスケジュールと理論が、いわゆる“総体革命論”であった。
天下取りの目標は、既に昭和六十五年にセットしなおされていた。このときは、まず七百万人の人間と財を完全に掌握しょうと考え、そのためには日蓮正宗を乗っ取って、”御本仏”としての権威をとることが先とばかり、日蓮正宗に総攻撃をかけた。その結果、日達上人の手痛い反撃を受けて、またまた挫折したのであった。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
山崎元顧問弁護士が語るように、池田氏の目標は「絶対者」として「日本国に君臨」することであったのでしょう。
”国立戒壇論”をあっさりとおろしてしまったのも「すべて池田氏の野望のためであり、政治も宗教も、池田氏にとっては、野心を果たすための道具だった」のでした。
さてここで、池田会長が「国立戒壇」を否定して行った過程と、その最終決定が何時だったのかということを、しばし振り返って検証してみましょう。
昭和三十九年一月一日発行の「日達上人御説法集」において、すでに「国立戒壇」の語が「本門戒壇」と、ひそかに改竄されていたことを見て来たことでした。
この年の五月三日の第二十七回創価学会本部総会で、正本堂を建立し猊下にご寄進申し上げたい旨の発議と、衆院進出の発表が池田会長によりなされたのでした。
そして六月三十日の第二十七回学生部総会で「御書には”国立戒壇”ということばはどこにもありません」、「戒壇建立はオカラである。カスのようなものだ」、「戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない」と池田会長は始めて述べ、それまで戸田会長の遺命としてきた国立戒壇をして、形式にこだわるものだとの否定発言をしたのでした。
そしてこの年の十一月十七日、公明党が結党され衆議院に進出することとなりました。
昭和四十年に入ると二月十六日に本山大講堂において、第一回正本堂建設委員会が開催され、細井管長は「戒壇の御本尊は特別な戒壇堂でなく、本堂にご安置申し上げるべきであります」とのみ述べて、あえて正本堂を戒壇とはしませんでした。
しかしここでおそらくは、池田会長の激しい圧力があったのでしょう。三月十五日発行の『大日蓮』三月号には「(正本堂建設委員会での)猊下のお言葉は、(略)正本堂建立が実質的に戒旦建立と同じ意義であるという、日蓮正宗の奥儀にわたる重大なお言葉があった」との、取材記事を掲載したのでした。
続いて三月二十六日には宗務役僧・宗内高僧の二十一名が正本堂建設委員会委員として連名の上で、『正本堂建立御供養趣意書』を発表。ここでは「席上、日達上人猊下より、正本堂の意義について、つぎのような甚深の御説法がありました。(略)かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります」と。
この時こそがまさしく、宗門における御遺命歪曲の分岐点でありました。細井管長は二月十六日の第一回正本堂建設委員会では、かろうじて正系門家の貫首としての矜持を保って踏みとどまり、あえて池田会長の意向に反することを承知の上で、正本堂を戒壇とはしなかったのでした。
しかしてこの細井管長の発言に、池田会長は激怒したのでしょう。さればと、こんどは大日蓮の記事や宗門の高僧等や宗務院に圧力をかけ、細井管長が言ってもいない「甚深の御説法」なるものをでっち上げさせ、外堀を埋める形で宗内世論を形成したであろうことが、上記の経緯から知られます。
この後はもはや、怒濤のごとくの「正本堂の誑惑」が宗門・学会に溢れることとなり、九月十二日には宗務院が院達を発布。
「今般、管長猊下より、別紙の通り訓諭が発せられたので通達いたします」として、「今回の正本堂建立は宗門僧俗にとって此の上ない誠に重大な事業であります。すなわち、訓諭に仰せ遊ばされてあるように、本門戒壇の大本尊を奉安申しあげる清浄無比の大殿堂であり、このことは、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります」と。
管長の訓諭では「本門戒壇の大本尊を奉安申しあげる清浄無比の大殿堂」としか示していないにもかかわらず、宗務院の院達では「このことは」という解釈・敷衍がなされて、あっという間に正本堂は「大聖人の御遺命」にして「門下最大の願業である戒壇建立」ということになってしまったのでした。
こうして見ると、ぎりぎり御遺命を死守しようと苦心される細井管長と、池田会長の傀儡・代弁者として管長を包囲する宗務院及び高僧達という構図が、くっきりと浮かび上がってくるのでした。管長の職にありながら孤立無援、貫首を補佐すべき宗務院が池田会長の意のままに院達を出すという異常な状況に、口惜しい思いをされたことでありましょう。
( さればこそ、妙信講が昭和四十五年三月、護法の一念を四万二千余字に込め「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を提出したとき、細井管長は 「宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです」、「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」、「諌めてくれたのは妙信講だけです」との本心を吐露されたことでありました )
昭和四十年十月十七日、創価学会十月度本部幹部会において池田会長は、細井管長に正本堂御供養金として三百五十五億三千六百万四千三百九円を奉呈。しかして細井管長は、その御供養金の使途の一切を、池田会長に一任したのでした。
このおびただしい金力を背景に、十一月十日に開催された第二回正本堂建設委員会において、池田会長は貫首と総講頭の席次を大胆にも同等とすることを要求。会議の準備に当たった柿沼総監を面罵し、柿沼総監はただちに総監の職を辞すこととなったのでした。
十一月十九日付の宗務院通達では、『法華講総講頭の待遇について』として、さっそく「法要以外の席は、猊下に並び」、「尊敬のまことを尽して待遇すること」(通達・第九百八十号)とされたことでありました。
さて昭和四十一年には、もはや正本堂の誑惑に自信を持ったであろう池田会長は、五月八日の創価学会本部幹部会の席上、「今後、国立戒壇という言葉は使わない」と言明しました。
これこそ、創価学会内部における“国立戒壇放棄”の正式な機関決定でありました。正式な機関決定となってしまった以上、原島教学部長等の首脳幹部達も割り切れない思いを抱きながら、従わざるをえなかったことでありましょう。
ここで同時に戒壇は「民衆立」とされ、戸田会長以来の創価学会の年来の主張であった「国会の議決による戒壇建立」説は、完全に否定・抹殺されたことでありました。
こうして、「正本堂の誑惑」と「国立戒壇放棄」は表裏一体・ワンセットであり、それは山崎元顧問弁護士も指摘するように、「池田会長ひとりの野望」のためでありました。
やがて後に宗門がこれに追随したのは、それから四年後のことでした。それが、池田会長の暴走に端を発した言論出版妨害問題の際、池田会長の自己保身を助けるためになされた、昭和四十五年五月三日のいわゆる「国立戒壇の名称放棄の公式決定」でありました。
(
平成十四年三月五日、櫻川 記 )
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