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    第二次妙信講“戦争”

 
昭和四十九年春より“第二次妙信戦争”は起こった。この“戦争”は、ついに、妙信講の講中解散処分、妙信講幹部による学会本部乱入事件、松本日仁、八木直道の二人の僧侶擯斥(僧籍剥奪)事件、浅井父子ら、妙信講幹部除名事件等々、行きつくところまでいってしまった。

 組織と組織のぶつかり合い、情報戦、宣伝戦、そして実力行使のこぜり合いも絶えなかった。昭和五十年から五十二年四月にかけて、本訴、仮処分異議事件、刑事告訴事件が、妙信講と日蓮正宗および学会の双方から出され、その数は十数件におよんだ。

 この“戦争”に、当然のことながら、
情報師団は総力をあげてのぞんだ。

 
電話盗聴は、はじめ、音羽にあった浅井甚兵衛氏宅につけようと準備したが、講談社前のマンションに設けたアジトに、西口、岩住、三上らがゴロゴロしていたところ、警視庁に過激派学生のアジトと間違えられてマークされ、撤退を余儀なくされた。

 つづいて、常盤台に妙信講本部が引っ越した後は、周辺に三ヶ所のアジトをつくり、
見張りと、盗聴器の受信と、それから宣伝カーの破壊工作にとりくんだ。ことに妙信講本部と地つづきの駐事場の奥にあるアパートの二階の一室は、まことに重宝だった。このときは、従来のメンバーのほかに、河上軍雄、M、K、S、Oら、新顔が続々と投入された。創対連グループも動員された。さらに、青年部の正規軍まで投入されての応戦であった。指揮本部は、学会本部内に置かれ、後に別館二階に移った。

 妙信講作戦では、盗聴もさることながら、
スパイの活躍が効果的であった。館岡倉市氏(副会長、連絡局長)の配下のM1(佐藤某)、福島源次郎氏配下で文京グループの情報部員M2、M3、そして、私の直属のS、Yらが巧妙にもぐりこみ、重要な情報活動を行なった。
 妙信講のあらゆる行事の発言内容、主な支部の実態と、正確な行動、主な幹部一人一人の言動、浅井昭衛氏、長岡、村岡といった人物の言動が、毎日、
正確に私のもとに伝えられてきた。時には浅井昭衛氏と八木直道師、松本日仁師らとの電話のやりとりを、浅井氏が録音しているテープを盗み出してくる、というようなことまで彼らはやってのけたのである。

 妙信講のなぐりこみや、宣伝カーの出動も前日には情報が入り、指揮者やメンバーまでわかっていた。そうなると、こちらの作戦は、撃退するより
ワナにかけるという余裕が出てくる。
 ちなみに、昭和五十一年一月、総本山周辺で、妙信講の宣伝カーに、創価学会青年部が集団で暴行を加えるという事件があり、妙信講側が告訴したが、学会側は誕告罪で告訴し、結局ウヤムヤに終わってしまった。
 この件で、宣伝カーの屋根にのり、スピーカーの電線を切る作戦を立てて指示したのは秋谷栄之助氏である。

 暴行に加わったメンバーと行為の一切は、その後、福島啓充弁護士の調査で明らかになったが、その中に、原田、桐ケ谷氏らは入っていない。しかし、待ちかまえて計画的にやったこと、犯人が青年部の幹部であることは間違いない。福島弁護士は必死になって証拠湮滅工作を行ない、−方、藤井、大川、竜氏ら公明党都議会議員は、当時の静岡県警の幹部と警視庁在任中懇意であったというこどで“
お手やわらかに”の根まわしに静岡へ出向き、一席もうけて懇談した。当時の報告書類が私の手元に残っているが、閑係者の人権にかかわることであり、いまは伏せておく。

 調査活動、情報活動は、私たちだけがやったのではない。福島源次郎氏直属の文京グループも達者だったし、館岡氏のもとには、三品、水野、鹿野といった人物のほかに、学会員経営の専門の興信所をかかえていた。

 妙信講戦争は、ことのほか長引いた。昭和五十二年四月、和解によって、双方訴訟を取り下げ、一応の決着を見たが、このキッカケをつかんだのも情報の成果であった。
 二月の裁判に出廷した松本日仁師は、九十歳近い高齢であったが、衰弱ぶりが目立っていた。その後、妙縁寺の在勤者(見習い僧のこと)から、松本日仁師の姿が見えないとの報告を受け、引きつづき、千葉県の病院に入院したらしいとの情報が入った。調査の末、病院をつきとめ職員である学会員にカルテを調べさせた結果、老衰がはなはだしく、危険な状態との確信を得た。

 妙信講にとって、妙縁寺住職である松本日仁師の地位確認訴訟というのは、いちばん勝訴の見込みの強い訴訟であり、本人の死亡でこれがくずれてしまうと、旗色は極端に悪くなるはずである。そのことを、相手方の弁護士が知らぬはずはない。
 果たして、この情報の入った数日後、妙信講側の弁護士と地下鉄霞ガ関駅でバッタリ出会った桐ケ谷弁護士から、「
先方が、山崎先生と一度酒でものんで話し合いたいといっている」むねの報告が入った。

 数日後、妙信講側の弁護士との間で、和解の話し合いがはじまり、私が、松本日仁師の病状のすべてを知っていることを告げてざっくはらんな話し合いを求めたことで、話がはかどり、結局、日蓮正宗側で妙縁寺名義の預金の中から、一億二千五百万円を松本日仁師の指示により顕正寺設立準備基金口座に振り込むということで、双方
互いに訴訟をとり下げ、すべては落着した。

(最近、この、金銭解決の部分が公表されるや、桐ケ谷弁護士があわてて、妙信講側弁護士に、“
双方にとって、表に出ることは好ましくないから、事実無根ということにして、口裏を合わせてくれ”と泣きつき、一蹴されたらしい。陰にあって、偽証工作をやらされてきた弁護士のクセが、ついつい出たのであろう)




 
山崎元顧問弁護士は”戦争”と呼んでいますが、実態は創価学会側・山崎情報師団からの一方的な“攻撃”でありました。

 妙信講では同様の非合法な工作を手段とする意思は一切なく、できることと言えば宣伝カーによる訴えとビラの配布でした。わたしたちは創価学会からのそのすさまじい一方的な攻撃に、「御遺命守護」の一念でひたすら耐えたことでした。

 しかも創価学会は自らこうした非合法な破壊活動をしつつ、一方で強力な都議会議員・衆参国会議員を擁し、警視庁・警察庁・公安委員会等に隠然たる影響力を発揮していたことでした。
 しかして、わずか一万の講中が「
猊下に弓を引く」と罵られ、解散・除名処分を受け、これだけの謀略・暴力・デマ・中傷・諜報・訴訟・破壊等の“戦争”と称する工作に晒されて、なお講中への信頼を失う講員はほとんど皆無であったことでした。

 さて、最終的な「和解」には
三つの条件があったと言われます。一つは山崎元顧問弁護士が語るように、顕正寺建立資金を宗門側が妙信講に提供すること。二つには妙信講本部会館の御本尊を奪取せんとした訴訟を、宗門側が取り下げること。三つ目には、妙信講が「日蓮正宗」を名乗ることを、宗門・学会は妨げないということでした




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