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闇の帝王、池田大作をあばく
立正佼成会、PL教団への攻撃作戦
偽証工作という点では、昭和五十年初頭から同五十二年にかけて、はげしく争われた、妙信講との訴訟も同じである。
この時は、裁判の焦点が、日蓮正宗庶務部長、藤本栄道氏の証言にあった。そのため、裁判の期日の一週間ないし十日前から、当時の阿部教学部長、藤本庶務部長(現総監)を創価学会本部近くの第二青葉寮、または、研修所などにカンヅメにし、綿密な、証言の打合せを行つた。
もちろん、都合の悪い部分は偽証することを打合わせた。この作業は、桐ヶ谷弁護士、福島弁護士、若旅弁護士らが担当した。
私達学会側としては、この際ついでに日蓮正宗と創価学会の関係にかんがみ、藤本庶務部長に、日蓮正宗の宗務院当事者として、創価学会の路線を認め、創価学会があらゆる点で正しかったことを認める証言をさせようと努力した。
しかし、藤本庶務部長は今と違って、当時まだ日蓮正宗を学会から、守ろうとする気概があった。ギリギリ、妙信講の訴訟で勝つために止むを得ない範囲までの偽証には歩みよったが、それ以上は、宗門側の利益を損なってまで学会に与する証言はしなかった。前日の打合せでそうなっていても、当日は、うまく逃げてしまった。
この、藤本庶務部長の態度にすっかり感心した桐ヶ谷弁護士が、池田氏の前で、思わず、「藤本先生は、たいしたものです」と口をすベらしたところ、池田氏は目をむいて、「俺の前で、坊主に“先生”などと云うな!! “藤本”と呼びすてで良い」とどなりつけた。
池田氏にしてみれば、ちょうどこれから、僧侶を総括しようといろいろ作戦をねっていた時であったので、たいそうカンにさわったとみえる。「だが、お前は、藤本の弟子か」としかられて桐ヶ谷弁護士、何が何やらわからなく、面くらってしまった。
それにしても、このとき、対妙信講の戦争で、学会と日蓮正宗が共闘し、その当事者であったために、阿部教学部長も、藤本庶務部長も、すっかり学会側にふみ絵をさせられてしまった。そこから、その後の日蓮正宗の悲劇がはじまるのである。
私の情報師団の弁護団の仕事は、こうした守りの分野だけではなかった。他教団に対する攻撃にも出動した。昭和四十八年、池田氏の決裁にもとづいて、立正佼成会分断作戦を行った。(略)
今、私に対して加えられている追い込みや偽証工作には、桐ヶ谷、猪熊、福島ら、全学会員弁護団と、全情報師団が加わり、それに、公明党の政治権力が、力をかしている。手のうちは、すべて読めている。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
山崎元顧問弁護士は昭和五十年から同五十二年にかけての、はげしい妙信講との法廷闘争において、その裁判の焦点が日蓮正宗の藤本栄道庶務部長(当時)の証言にあったことを明かしてしています。
この法廷闘争については、「顕正会の歴史と使命」(平成五年十二月十五日)にも、「日蓮大聖人の仏法」(平成十一年十一月三十日)にも言及されていないので、顕正会員でも知らない方が多いことでしょう。
昭和五十二年九月の光文社発行の雑誌「宝石」に、日蓮正宗妙信講・浅井昭衛講頭(当時)が寄稿した特別手記
「池田大作とのわが宗教論争」から、その法廷闘争の一端を見ておきましょう。
『 御遣命守護の闘いは未だ終わっていなかったのだ。ここに妙信講は、徹底して、学会の誑惑を粉砕すべく、講中の命運を賭して立ち上がった。当然池田大作は妙信講を抹殺せんとした。そして昭和四十九年八月十二日、細井管長に妙信講の解散処分を強要した。処分理由は「国立戒壇を主張したゆえ」であった。
さらに妙信講を支持したという理由で松本日仁、八木直道両師を宗門追放に処した。両師は共に八十歳をこえ、衆人が認める高潔な老僧であった。
池田大作はあらゆる手段を講じて妙信講を潰滅せんとした。その一つに、妙信講の本部会館に安置してある御本尊を裁判にかけて奪わんとした事件がある。同御本尊は全講員が日夜参詣礼拝している妙信講の命ともいうべき信仰の対境であった。
学会弁護団は七人、しかし裁判は審理が進むにつれ、おかしな事態になってきた。私は法廷において、八回二十四時間にわたる証言(主尋問)をした。学会弁護団はその間、手ぐすねを引いて反対尋問の用意をしていたのである。だが、正しい道理ほど強いものはない。
学会弁護団のほとんどは学会幹部でもあった。なまじ一分の信心あり、一分の教学があるため、大聖人の御遺命に背く恐ろしさを肌身で感じたのであろう、反対尋問をする弁護士が逆に臆し、あぶら汗を流す光景が現出したのだ。そして三回目、ついに反対尋問は継続不能となり、彼らは裁判取り下げを申し入れて来た。御本尊は守られ、池田大作は敗退したのである 』と。
そもこの裁判は妙信講を潰滅するため、妙信講の本部会館安置の御本尊を奪おうと、創価学会・宗門が起こしたものでした。その根拠とは、妙信講が宗門から解散処分を受けた故、ということでありました。よって、御本尊を宗門に返却せよ、と。
しかして、その解散処分の理由は「国立戒壇を主張したゆえ」でありました。まさしく裁判の焦点は、ここにありました。国立戒壇の主張は、従来・宗門も創価学会も「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と声を大にして叫んで来たことは、明々白々たる事実であって否定のしようがありません。
それを、池田会長の野望による創価学会の政治進出と、池田会長の自己保身を扶けるため、にわかに国立戒壇を宗開両祖・歴代貫首の宗是に背いて勝手に放棄し、「国立戒壇を主張したゆえ」に妙信講を解散処分に処したことの<理非>がまさしく焦点となり、宗門・学会が結託してなりふりかまわず計画的に偽証を画策していた事実が、上記の山崎発言から知られます。そこまでしてもこの裁判の結末は、宗門・学会からの裁判取り下げによる和解で終わったことでありました。
浅井講頭の「池田大作とのわが宗教論争」の<結び>には、こうありました。『 国立戒壇をめぐる創価学会と妙信講の血みどろの激闘はすでに八年に及んでいる。うかつな者が見れば、七百五十万は勝ち、一万八千は負けると思うであろう。だが「悪は多けれども一善に勝つことなし」である。妙信講は必ず勝つ』、『国立戒壇否定という大悪は、国立戒壇成就の大瑞相であるのだ。とまれ、この闘いの帰趨が、日本の運命に、重大な関わりを持っていたことを、世人は後に知ることであろう』と。
(
平成十四年三月八日、櫻川 記 )
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