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   創価学会第三十三回総会 池田会長講演

     言論・出版問題

  (
二度と同じ轍を踏んではならぬと猛省

 その点からいえば、今回の問題は、あまりにも配慮が足りなかったと思う。また、名誉を守るためとはいえ、これまでは批判に対して、あまりにも神経過敏にすぎた体質があり、それが寛容さを欠き、わざわざ社会と断絶をつくってしまったことも認めなければならない。今後は、二度と、同じ轍(てつ)を踏んではならぬと、猛省したいのであります。

 私は、私の良心として、いかなる理由やいいぶんがあったにせよ、関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直におわび申し上げるものであります。もしできうれば、いつの日か関係者の方におわびしたい気持ちでもあります。
 また、この問題には、学会幹部も何人か関係していますが、全般の学会員の皆さん方には、なんら責任のないことであります。その皆さん方に種々ご心配をおかけしまして、私としては申しわけない気持ちで一杯であります。

 私自身、小説も書いております。随筆も凄いてきました。いろいろ論文も書いております。これからも書いてまいります。近代社会の言論の自由の恩恵に浴している一人であります。もし今の社会に言論の自由がなかったならば、自分の思うことも書けないでありましょうし、こうして話していることもできなかったかもしれません。総じては、学会の発展も、こんなに急展開できなかったでありましょう。
 言論の自由が、幾多、先人の洗血の戦いによって勝ち取られたものであり、人間の権利を保障する尊い遺産であることも、よくわきまえているつもりであります。
 これを侵すことは民衆の権利への侵害であることを明確に再認識し、言論の自由を守り抜くことを私どもの総意として確認したいと思いますが、いかがでしょうか。

                       ( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )


 
池田会長は、誰に向かって 「関係者をはじめ、国民の皆さんに多大のご迷惑をおかけしたことを率直におわび申し上げる」と述べたかといえば、第三十三回本部総会に参加した創価学会の一部の幹部たちに対してでありました。
 それは、きびしい質問が浴びせられる国会の証人喚問でも・国民に向けての記者会見でもなく、<「では、やめては困るという人、手をあげてください!」「ハァーイ」と会場全体を揺がすほどの大歓声が上がった>と藤原元総務が語る、批判精神のカケラもない信者に向けてであったことでした。そして、その「
いつの日か関係者の方におわびしたい気持ち」などという空々しいカラ手形も、ついに果たされることはありませんでした。

 また、この形ばかりの池田会長の「謝罪」は、<
日本社会では、人間関係を鬱然として暗くしている空気を「謝罪」によって打ち払う。謝罪によって、「誠意がある」ということになって人間関係は改善される。「先に謝ってしまったほうが勝ち」と言われるのは、この理由による。このように、日本においては謝罪によって紛争は解決されるのである>(「日本国民に告ぐ」 -- 誇りなき国家は必ず滅亡する、小室直樹著、クレスト社発行)という、日本独特の人情の機微に巧みに訴えたものでありました。

 もちろん、小室教授の指摘は「
欧米やアジア諸国では、謝罪した人は、謝罪された人に責務を負うことになる。この意味で、両者間の人間関係は対等ではなくなる」ということにあるのであって、「謝罪の意味が日本と世界とで正反対である」ということでありました。
 では小室直樹氏に、このように「謝罪」の結果が正反対となるその理由を聞けば、「
右の諸外国においては客観的規範が存在するのに対し、日本には、かかる規範が存在しないからである。日本社会では...、人間関係に漲る『空気』によって決まるのである」と言われるのでした。
 たしかに日本人・日本社会においては、「和」を尊んで「空気」を大切にすることであり、山本七平氏はそれをいみじくも「日本教」と名付けたことでした。

 池田会長のこの心にもない「
謝罪」ポーズは、巧みにその日本教徒の心情に訴えるものでありました。同じく細井管長の池田会長への追随も、宗門統率を第一義として宗内の「空気」に従ったことなのでありましょう。
 教義より「空気」を優先して「国立戒壇放棄」を宣言した細井管長・池田会長は、こうして表面は「日蓮教徒」に見えて内実は「日本教徒」であったとは、小室・山本両氏による指摘でありました。

 日蓮大聖人は、「
念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と、命を的として国家を諌暁し、開山上人また「五人の立儀一一に先師の御弘通に違する事」と、たしかな規範にもとづいて「空気」なるものに従うことはありませんでした。
 顕正会また宗門・創価学会から「原理主義」やら「教条主義」やらと非難されるほどに、いささかも「空気」に媚びないこと、大聖人の御眼を畏れるが故でありました。

                        ( 平成十四年四月八日、櫻川 記 )


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