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   創価学会第三十三回総会 池田会長講演

     正本堂の本義

  (
国立戒壇は御書にない

 次に、一部に、いまなお「国立戒壇」ということに批判がありますが、この点について言及しておきたい。

 元来、日蓮大聖人の御書には国立戒壇という表現は全くない。ではいつごろ戒壇に国立という言葉が使われるようになったかを調べてみましたところ、さきほどの猊下のご説法にもありましたごとく、明治に入って国家意識が強くなってから、仏法上、一般的にいわれるようになったようであります。

 日蓮正宗においては、一貫して本門戒壇、あるいは事の戒壇というのが正式の呼称でありましたが、一時期に一般の呼び名にならって、国立戒壇という表現を使ってきたことも事実であります。戦後においても、国立戒壇という表現は、そのまま問題にされず、今日までまいりました。

 恩師戸田前会長も、また私達も、決して、その表現にこだわらず、本門戒壇は、単に日蓮正宗のためのものでも、創価学会のためのものでない。日本一国の繁栄、全世界の平和を願う、その本来の精神を端的にあらわすものとして、国立戒壇という言葉を用いてきました。
 しかし、その言葉が、そのまま国教化を目指すものであるという誤解を生じてはならないので、戸田前会長も私たちも、明確に、国立戒壇イコ−ル国教化ということは、最初から否定してまいりました。


                       ( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )


 「国立戒壇」の表現が御書にないというのなら、「民衆立戒壇
」の表現は御書にあると言わねばならないことでしょう。思いつきの詭弁は、最初から破綻していたのでした。

 法華経の肝心とされる「
一念三千」も「久遠実成」も「二乗作仏」もその表現は当の法華経になくして、しかしながらその上でその義を端的に顕わす名辞として用いられて来たのでした。原典における「表現」の有無がその名辞の用否を定める基準・根拠とならないこと、あらためて云うまでもないことでした。
 「国立戒壇」についても同様、三大秘法抄の「
王法仏法に冥じ、乃至勅宣並びに御教書を申し下して建立」すべき戒壇とは、一言で表せば「国立戒壇」と言うの他はないことでしょう。

 そも日蓮大聖人の振舞いからも、一貫して「国主」を相手・対象として国家諌暁を遂行し、私的な論判でなく国主の面前にて「
公場に是非を決せん」と望まれたことでした。是非を決することなく一部の帰依でよいのなら、佐渡より帰還の際・執権が恭順の意を示した愛染堂別当就任の申し出とても、あたら拒否しあえて身延に入る謂われはなかったことでしょう。
 本門戒壇は「
国土成仏」の要件であれば、国主・国民が(王臣)一同に謗法への布施を止め三大秘法を受持した暁に建立さるべきことは、池田会長とても百も承知のことでありました。

 されば「題目の流布だけは、日本国の津々滴々まで行き渡ってきているのであります。そして現今、本尊雑乱の宗教界の戦国時代に起こった創価学会の前進により、本尊流布の大闘争は、大河の激流のごとく展開されつつあるのであります。進んで、一国本尊流布の終了にともない(略)国立戒壇の建立がなされるのであります」(親衛隊の決意)と言い、
 また「国立戒壇の建立は日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的でございます。国立戒壇建立といえば、一般の人々は、国家の特権や国家の圧力をもって戒壇を建立するというように考えがちでございますが、(略)日蓮大聖人様の仏法、大御本尊様の功徳が全民衆にいきわたって、その世論として国立の戒壇ができるということを知らせていかなければならない」(民衆の総意で戒壇建立)等と、述べて来たことでありました。

                        ( 平成十四年四月九日、櫻川 記 )


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