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   創価学会第三十三回総会 池田会長講演

     正本堂の本義

  (
政治進出の目的

 第四に、したがって政治進出は、戒壇建立のための手段では絶対にない。あくまでも大衆福祉を目的とするものであって、宗門、学会の事業とは無関係であることを、再度、確認しておきたい。よろしいでしょうか。

 以上の四点は、猊下のご同意も得た上で総務会等の決定に基づき、発表するものであり、未来においてもこの決定は変わらないことを明確にしておきたいのであります。

 およそ、大聖人の仏法は、あくまでも民衆の生活のなかに躍動する文化の大海でなければならない。個人の内面の変革を通して時代をもリ−ドするもであり、全人類の生命に潜む魔性に挑戦し、悲惨と苦悩を終滅することが仏法の本意であります。

 立正安国論にいわく「
汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗(じつじょう)の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰(おとろ)えんや、十方は悉(ことごと)く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微(すいび)無く土に破壊(はえ)無くんば、身は是れ安全・心は是れ禅定(ぜんじょう)ならん」(御書全集 三二頁)と。
 日寛上人は、この御文を引き「
文はただ日本および現在にあり、意は閻浮および未来に通ずべし」云々と。

                       ( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )


 第四に、そもそも「政治進出は、戒壇建立のため」であったことは、戸田会長の「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的」(大白蓮華 昭和三十一年八月)なのであって、「政界に、国立戒壇建立の必要性を、十分に理解させる」(広宣流布と文化活動)ため、あえて参議院に歩を進めたのであったという歴史的事実までも、いかな池田会長としても決して否定ができないことでありました。

 さて、池田会長が「国立戒壇」を最も激しく、ある人の表現を借りれば「狂ったように」叫んでいた時期は、戸田会長の逝去から会長就任までの間でありました。
 第三代会長に就任するや、「国立戒壇」への言及は一気に激減し、昭和三十九年の公明党結党に至って、創価学会からは「国立戒壇」の語が完全に消え、日達上人御説法集における登座の説法の「国立戒壇」の語まで改竄したことは、すでに示したことでした。
 では、池田会長のそうした行動は<何故>であるのだろうか。ご本人から本音が聞けるはずもないのでわたくしに推測をするに、その理由は二つあると思われる。

 一つには、池田会長は戸田会長亡き後を襲って、自らが会長職を獲得するために「国立戒壇」を利用したのだ、ということでした。
 戸田会長亡き後、創価学会は牧口門下の長老にしてナンバーツーであった小泉隆理事長をリーダとして、本部幹部会のメンバーであった和泉覚・原島宏治・辻武寿・柏原ヤス等の、戦前からの牧口門下の理事が運営にあたったのでした。
 そこにおいて、青年部の池田参謀室長(当時)は「
しきりに戸田会長の『遺志』を本部幹部会や青年部幹部の前で口にするようになった」(池田大作の素顔)と、その一部始終を目撃していた藤原元総務は証言するのでした。「戸田先生は三代会長は青年部から出すとおっしやった」と云い、池田参謀室長はさらにまた何度も以下のような言葉を繰り返したのでした。

 池田参謀室長は、戸田会長の遺志として「会長先生に御恩返し(略)、ただひとつ創価学会の目的である国立戒壇の建立、不開門を開いて、会長先生に、このように戦ってまいりましたという、御報告」(迫撃の手をゆるめるな!)と云い、「われわれ青年部は、いまこそ先生の御遺命となった国立戒壇建立に向かって、怒涛のごとく大進軍せねばならない」(会長先生と青年部)と述べ、「青年部諸君、われらもまた、古人に遅れず、会長戸田城聖先生の遺弟として(略)、国立戒壇建立の大偉業を、りっぱに果そうではないか」(同)と語り、「国立戒壇を建立するならば、仏天の加護によって日本の国には原子爆弾は落ちないし、日本民族は必ず繁栄するというのが、会長先生の御遺訓」(青年部は世界の焦点)等と、「
青年部」と「会長先生の御遺命・御遺訓」と「国立戒壇」の三つをセットにして機会あるごとに強調し、以て長老の理事達と一線を画すところの若き自らの存在感をアピールしたのでした。

 池田室長の狙いは、まずは邪魔な長老たちの会長昇格の芽を摘むことであり、やがて創価学会本部内には、「
次の会長はやはり青年部だ。戸田先生もたしかにそうおっしやった」(池田大作の素顔)という空気が強まり、池田室長のもくろみ通りに長老の理事たちは自発的に次期会長候補から降りたのでした。
 そして次に青年部の筆頭といえば誰が見ても、戸田会長の寵愛と薫陶をうけた石田次男氏でありましたが、学究肌の石田氏に「至難事中の至難事」である「国立戒壇建立遂行」の任務は似つかわしくなく、また元より石田氏自身に会長就任の意志がなかったことでありました。
 こうして、「われわれ青年部は、先生の御理想に向かって(略)、天魔の働きや、三類の強敵がおそいかかってきたときには、阿修羅のごとく力を出しきって戦っていきたい」(民衆の総意で戒壇建立)と
武闘派のアピールにこれつとめた池田参謀室長の思惑通りに、三代会長の座が転がりこんできたのでありました。それはあたかも藤原元総務の言葉を借りれば、「ヒツジの群れにキツネが一匹」のごとくでありました。
 しかして会長の座を得た以上、もはや戸田会長の御遺命・御遺訓の「国立戒壇」が自らの野心・野望にとっていずれ邪魔になることを知っていた池田会長は、以後「国立戒壇」を口にすることがなくなったのでありました。

 二つには、池田会長本来の俗なる野望・野心たる「天下取り」構想(池田大作の素顔)の道具として、日蓮大聖人の仏法を利用したのでありました。富士大石寺に伝わる御遺命の「国立戒壇」の教義は、創価学会員を遮二無二選挙に駆り立てる激しい効果のあることを、池田会長は熟知していたのでした。選挙における勝利こそが、彼の政治野心の達成に不可欠であり、されば初期の段階においては「国立戒壇」こそは実に都合のよい教義であり、ゆえに「創価学会の唯一の大目的」と声を大にして叫び続けたのでありました。

 やがて、創価学会員の信仰活動の重要な柱として選挙活動が定着したと見るや、徐々にその選挙活動の意義から「国立戒壇」を排除し、巧みに「大衆福祉」や「生命の尊厳」や「人間牲の尊重」や「世界平和」等にスリ替えを謀ったのでした。
 こうして池田会長は、「国立戒壇」を選挙のために利用できる限りさんざん
利用し尽くしたあげく、その甲斐あって公明党の議席が増えるにつれて・いざ世間・マスコミ・国会等から非難・批判が高まるや、自ら弊履のように「国立戒壇」を捨去しただけでなく、これを好機として宗門に対して脅迫・威嚇を重ね無理強いのあげく、ついに「国立戒壇」を放棄させたのでありました。

                        ( 平成十四年四月十二日、櫻川 記 )


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