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甦るか創価学会 --- 広宣流布路線への提言 ---
第一部 広宣流布への提言
日蓮の平和思想(四)
● 三大秘法抄と五条件
( 三大秘法抄の第四条件 )
第四は 「勅宣並びに御教書を申し下した時」。勅宣とは天皇の允可書、御教書とは幕府の裁可書、権力者の戒壇建立に対する許可的条件である。
創価学会は 従来この文に関しては 「現代で言うなら 国会の議決機関を通った認可書」と教えてきた。
だが 昭和四十五年の本部総会において、前会長は、本門戒壇が国立である必要はない、民衆立でいい、ということになると、この文は訳せなくなるし、否定するということにもなってくる。
何故 戒壇というものが、これ程まで重要視されるかと言えば、昔、僧になるには必ず戒を受けねばならなかった。(略)現在のように、宗派別に勝手な僧侶の出家が
許されていたわけではない。
すべてが天皇の許可によって 出家した公僧であった。試験もとびきり難しく、日本最高のエリート集団であったわけである。しかし、仏教団の乱れと共に、私度僧が増えるに従って戒壇の意義もうすくなってしまった。だから、正しき法による正しき戒を授け
人間を正しい在り方に導くと共に、宗教の整理統合をしなくてはならないところに、本門戒壇堂建立の一つの重要性がある。
日本初の戒壇は、天宝十二年四月、唐僧鑑真によってもたらされた、奈良東大寺戒壇であり、続いて、東国は下野薬師寺、西国は筑紫観世音寺だけであって、僧は必ずこのいずれかをくぐらなければ、僧として認められなかったのである。後に、最澄の運動によって出来た比叡山の大乗円頓戒壇、これ以外に日本には戒壇がなかった。
この四つの戒壇はどれをとっても、天皇の勅許によって出来たものであり、天皇の勅宣なしで出来ることなどは、戒壇という意義からして価値はないし、絶対に考えられぬことなのである。
日本初の寺院、向原寺、続く四天王寺も天皇の許可によって出来た寺であるし、中国の戒壇堂も皇帝の勅宣によって出来たことを考えれば、日蓮の胸中にあった本門戒壇堂の建立はことわらずとも国立的なのである。でないと 戒壇という意義の価値が 半減してしまう。
池田前会長は、本門戒壇堂建立に国立的思想があることを知りつつ、民衆立にねじまげてしまったことは、何よりも前会長の思想の挫折を意味するものであろう。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
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