顕正会の崩壊は近い


浅井会長の実現不可能な「誇大妄想」を直視しよう!
 

 

      妙一尼について


 "迷走する顕正会を斬る"サイトの所蔵資料に、「日蓮誕生 — いま甦る実像と闘争」を紹介した。著者 (江間浩人) は、これまで見過ごされてきた、"新たな視点"を数多く提示している。
 今回は、「日蓮誕生」から "妙一尼" について見てみよう。  

 建治三年、妙一尼が鎌倉から馬に乗って、身延の大聖人を訪れている。その馬とは、将軍家所有の馬であり、池上兵衛志宗長が管理していた。(「誕生」p13)池上の北には、馬込の地名が残っている。

 右大将・源頼朝が、由比ヶ浜の眺望を楽しむため建てた"桟敷"を、近臣の印東次郎左衛門尉祐照が管理をまかされ、"桟敷殿"と呼ばれた。印東祐照の妻が、"さじきの尼御前" と呼ばれた妙一尼である。(「誕生」p11)
 "さじきの尼御前" といえども、将軍家の馬を勝手に使うことはできない。池上宗長が、将軍家にお伺いを立て "許可" を得たからに他ならない。

 それにしても「かれたる朽木のやうなるとしより尼」(「妙一尼御前御消息」、建治元年五月 法華経寺)の一介の尼御前に、将軍家からそのような許可が降りるわけもない。
 大聖人は「此の度此の尼御前大事の御馬にのせさせ給ひて候由承り候。法にすぎて候御志かな」(「兵衛志殿女房御書」、建治三年三月二日 真蹟なし)と、池上宗長の妻に書を送っている。「此の尼御前」とは妙一尼、「大事の御馬」とは将軍家の御馬である。まことに尋常ではない、「法にすぎて候」である。妙一尼は、惟康将軍の縁者だからこそ、尋常ならざる配慮があった、との著者の説は説得力がある。(「誕生」p80)

「此の御房はいかなる事もありていみじくならせ給ふべしとおぼしつらんに」(「妙一尼御前御消息」、建治元年五月)と、妙一尼は大聖人が幼少の頃からその成長を見守り大成を願って来た。大聖人が京都に遊学されたとき、京での便宜を図ったのは妙一尼であっただろう。妙一尼は工藤祐経の長女で、京に生まれている。工藤祐経は、後白河院の武者所筆頭である。妙一尼の子が成弁阿闍梨日昭、甥が大国阿闍梨日朗である。
 佐渡配流の際には、ただちに佐渡に下人を遣わしている。「滝王丸之を遣使さる。(略) 此は末代の凡女、彼は上代の聖人なり。志既に彼に超過す。来果何ぞ斉等ならざらんや。何ぞ斉等ならざらんや」(「さじき殿御返事」、文永十年四月二六日 瑞竜寺)

 さらに妙一尼は、大聖人の佐渡流罪赦免の "評定" の、訴人となっているという。妙一尼が「訴人」となったことで将軍家が動き、ついに評定が動いた。(「誕生」p83)「日蓮がゆりて候ひし時、いかに悦ばせ給はん」(「妙一尼御前御消息」、建治元年五月)と。

 大聖人の生涯を通じて、妙一尼の存在はまことに大きく、そして重い。( 令和5年5月20日 櫻川記 )