はじめに
顕正会の淺井昭衞会長にはこれまで自伝というものがなく、「淺井昭衞伝」の類も一冊も公刊されていない。顕正会について一般書籍では、「冨士大石寺顕正会」(下山正恕著、日新報道)が出版されているだけである。
なぜ顕正会には、厳しい勧誘ノルマがあるのか。
なぜ顕正会では、質問や疑問が許されないのか。
なぜ顕正会では、浅井会長が絶対とされるのか。
なぜ顕正会は、国立戒壇を叫ぶのか。
なぜ顕正会は、実働会員が少ないのか。
なぜ主任理事の浅井克衛氏は、突然失脚したのか。
本書は淺井昭衞伝であると同時に、顕正会に関心を持つ方々が持つこうした疑問への、一つの答えになっているだろう。
最初に顕正会の現状を紹介し、第二章から第六章までは浅井会長の足跡をその源流から辿り、史実の断片を時系列に整理して、淺井昭衞氏が宗門でどのような働きをしたかを描いた。読者諸氏には、個々の出来事の相互の関連を読み取っていただければ、幸いである。年代順に淺井昭衞氏の足跡を辿っているので、関心のない時代や煩瑣な部分は読み飛ばしていただいて結構である。
第七章以降は、淺井昭衞氏の教団運営の問題点や思想の特異性を、会長自身の発言を基に矛盾と変節を指摘することで、その人物像に迫った。
本書は、浅井会長を四十年近く師と仰いだ古参の会員が、所持する資料を基に描いた人物伝であり、教義の是非や当否を問題にしたものではない。
わたしは昭和四十一年、高校に入学した十五歳の四月に縁あって日蓮正宗に入信し、妙信講(後の顕正会)に所属した。縁あってとは、気弱な少年が同級生からの入信勧誘に「ノー」と言えなかった、ということである。
日蓮正宗は、日蓮大聖人の高弟の一人である日興上人が開いた富士大石寺(静岡県富士宮市)を総本山とする宗派で、大石寺の住職(法主)が日蓮正宗の管長を兼務する。日蓮正宗の末寺の信徒組織を法華講と呼び、妙信講は妙縁寺所属の法華講であった。
日蓮正宗に入信すると、末寺で曼茶羅(形木本尊)を下附され、勤行(法華経の要品読誦と唱題)が信徒に課せられる。わたしの家は宗教と無縁で、そうした儀式に違和感を感じたが、渋々ながらも実行した。
ところが、当時の妙信講の先輩諸氏は知的で魅力的な人が多く、あたたかくわたしに接してくれた。やがて、勧められるまま会合に参加するようになり、以来、周囲の同志と共に淺井昭衞氏を師と仰ぐようになった。
それから顕正会員歴三十九年六ヶ月の後、平成十六年十月にわたしは顕正会から除名処分を受けた。顕正会では処分は口頭でなされるが、異例なことに除名の本部通達が機関紙「顕正新聞」に掲載された。
除名処分の本当の理由は、拙著「
本門戒壇の本義」(パレード、平成十六年十一月)の出版が、浅井会長の逆鱗に触れたことによる。会長の専制支配で維持されている顕正会にあって、一会員による本の出版は会長の権威を侵す反逆とみなされたのである。
今日の淺井昭衞会長は、他者を批判したその同じ誤ちを自ら踏襲し、道を違えてしまった。かつて師と仰いだ"浅井先生゛の不誠実を黙視し得ず、わたしは平成十九年十月に「諫言」を提出して諌めたが、会長はまったく聞く耳を持たなかった。
「
愚者は経験に学び、賢人は歴史に学ぶ」(ビスマルク)と言う。顕正会の破綻が迫りつつあるいま、特に新旧の顕正会員諸氏には淺井昭衞会長の足跡と変節を知り、顕正会について自ら考えていただきたいと願う次第である。
なお、登場人物の多くは現存する方々であり、一般人には氏、僧職者には師、あるいは当時の役職名を付した。宗祖である日蓮大聖人は別格とし、大石寺の歴代は上人とした。
本書は「人物伝」として、表現に際し客観的・一般的であるよう、意を用いた。読者に不遜な表記と思われる点があれば、ご容赦願いたい。
資料の引用に際し、ページ数の制限と冗長を省くため、文章中に「 …」 と省略を多用したが、論旨を曲げる意図はない。引用には可能な限り出典を示した。
平成二十一年三月末日