あとがき
ベストセラーとなった「バカの壁」(養老孟司著、新潮新書)の帯紙には、「
『話せば分かる』なんて大ウソ!」と記載されている。人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能であって、理解できない相手を人は互いにバカだと思う、とするのである。
わたしは一読して、これは仏教で言う「
一水四見」(いっすいしけん)だと思った。見る者の心のはたらきが異なると、同じ水も違った見え方をする。仏典では「
天人は瑠璃、人間は水、餓鬼は膿血、魚は住処と見る」(摂大乗論)とされる。後に、養老孟司氏が「バカの壁」の隠し味は仏教思想だと語るのを聞いて、やはりと思った次第である。
浅井会長は、顕正会員にとっては無二の師匠であり無謬の人である。批判する側からは「謀り昭衛」などと呼ばれ、毀誉褒貶の振幅がはなはだしい。
そもそも、全肯定(常見)と全否定(断見)の二辺を離れることこそ、仏教の説くところである。妙法蓮華経には「
如に非ず、異に非ず」(如来寿量品第十六)と説かれている。
天台大師はこれを「
三界の人は三界を見て異と爲し、二乘の人は三界を見て如と爲し、菩薩の人は三界を見るに亦如亦異にして、佛は三界を見るに非如非異にして、双べて如異を照らすが若し」(妙法蓮華経玄義)と解説した。
本書は、淺井昭衞という人物を一面的に描くのでなく、正本堂問題での功績、特異な思考形態、変節と自語相違等、是と非の両面の記述を心掛けた。
わたしもそうであるし妙信講員は一同、「御遺命守護」に身を投じたのである。しかし淺井昭衞氏は、正本堂落慶の二年後に創価学会攻撃のネタとして、自ら守護したはずの正本堂を「
不浄の殿堂」と言い出し、さらに「御遺命守護」の要である戒壇論の継続討議を自ら放棄してしまった。
淺井昭衞氏の足跡を振り返ってみると、「正本堂に就き宗務御当局に糾し訴う」からしてすでに創価学会攻撃が主目的だったとすれば、残念ながら淺井昭衞氏のその後の行動に辻褄が合ってしまう。「
御遺命守護は自作自演だ」という指摘に、一定の根拠を与えてしまったのは淺井昭衞氏自身である。
浅井会長の実像をよく知っている、わたしなどより「淺井昭衞会長伝」を記すのに相応しい元中枢幹部の方々には、今後ぜひ会長の素顔を語ってもらいたい。顕正会の破綻が迫りつつあるいま、淺井昭衞氏の足跡と変節を提示し、新旧の顕正会員が自ら考えるための材料を提供することが、本書の目指すところである。
わたしは、淺井昭衞氏が捨ててしまった「妙信講の精神」をどのような形になるか分からないが、再興したいと願っている。妙信講の精神とは、「
権勢にへつらうな、おもねるな、曲げて安易に住するな」(「講報」第一号)である。
顕正会員にとって「権勢」とは、いまや顕正会に君臨する淺井昭衞会長であることは、本書をご覧になって納得していただけたのではないだろうか。
著者 記す。