第九章 一、御遺命守護完結の偽り
御遺命守護完結の姿
平成十年四月五日夕刻、突如として大御本尊が正本堂から元の奉安殿に遷座された。五日後、顕正会は「御遺命守護完結奉告式」を奉修した。
どうしてこの事態が、御遺命守護完結になるのだろうか。
御遺命守護完結の姿について、浅井会長はかつて次のように明示していた。
一、日蓮正宗信徒に復帰できる
二、幹部には常住本尊、一般会員には形木御本尊が下附される
三、戒壇の大御本尊様への内拝が許される
四、松本日仁能化の擯斥処分取り消しと満山供養を願い出る
また、護法山顕正寺落慶の際には、「
御遺命守護完結のその日には、この顕正寺は時の御法主上人猊下に御供養申しあげる、お還えし申し上げるということになっております」(「冨士」一七五号)と述べていた。
しかし以上の事は、一つも実現していない。
御遺命守護完結とは、顕正会の掲げる戒壇義が宗門に受け入れられることであった。大御本尊の遷座とは別の問題である。
大御本尊の遷座を、御遺命守護完結であるとすりかえることは、会員への謀りである。
しかも、「
なぜ大御本尊御遷座が御遺命守護完結なのか」と素朴に質問した幹部を、浅井会長は疑問を封じ込めるため除名処分とした。
大御本尊御遷座を以て御遺命守護完結とすり替えた顕正会が、時を待たずに正本堂を宗門七百年の悲願・御遺命の成就と偽った創価学会を、どうして責められるだろうか。
正本堂を不浄とする偽り
正本堂落慶の直前まで創価学会代表と論判を重ね、正本堂の意義を正したのは淺井昭衞氏であった。
その主要な論点の一つが来賓の式典参列についてであり、浅井本部長は、「
来賓の件については、落成式には招かず、建物が完成した時点の御遷座以前に、建設に寄与した工事関係人、銀行等を集めて『完工式』を行うことと決定された。ここに戒壇の大御本尊に対し奉る不敬は辛うじて防がれた」、「
不信・謗法の来賓数千も大御本尊の御座所をついに踏み給わず。御遺命の正義・本宗七百年の伝統は、辛うじて此処に死守せられた」(「冨士」第二百五十号、昭和 年 月)と述べている。
そうであればこそ、妙信講は御遺命守護の奉告のため正本堂に在す大御本尊への目通りを願って、登山の申請をしたのである。
しかし二年弱の時を経て、浅井本部長は正本堂を「
不浄の殿堂」と言い出し、自らの功績を踏みにじってしまった。なぜ正本堂を不浄の殿堂と、淺井昭衞氏は言い出したのだろうか。
浜中和道師は、「
聞くところによると淺井昭衞は、六月頃に『いよいよ学会をやっつけようとしている時に、こういう願ってもない攻撃のネタが見つかった』と大喜びしていたそうです」(元妙信講問題について)と、伝聞として淺井昭衞氏の言葉を記している。
昭和四十九年六月という時期と、当時の状況を勘案すれば辻褄が合う。
淺井昭衞氏も、「
正本堂の落慶式に先立って行なわれた完工式に、ローマ法王庁から二人、米国から二人、都合四人のキリスト教神父を正式に招いていたのであった。… しかし妙信講がこの悪事を知ったのは二年後の四十九年夏であった」(なぜ学会員は功徳を失ったか)と述べている。ちなみに、「米国から二人」というのは、記載された英文の誤読による淺井昭衞氏の勘違いであり、出席した各国の駐日大使の中にバチカン市国の大使が二名含まれていた、というのが事実である。
淺井昭衞氏は神父招待問題を、創価学会攻撃の格好の材料とした。ところが、攻撃材料の一つがやがて自己目的化し、「
不浄の正本堂から大御本尊を遷座せよ」との主張にまで、エスカレートしてしまった。
他宗・他門の寺社が大石寺に帰依したとき、その堂宇を取り壊す必要はない。「
一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す」(取要抄文段)と、日寛上人の指南である。
完工式への異教徒参列が堂宇を汚し、その不浄が二度と永遠に解除されないとする浅井説は、道理を欠いた詭弁だと言わざるを得ない。