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顕正新聞 平成十一年四月二十五日号
本部指導会に中核幹部二千名
期を画する重要指導に緊張と感動
“広宣流布の新段階”を全員実感
(略)
松本日仁能化のご庇護
顕正会が発足のとき、当時まだ妙信講と名乗っておりましたが、六十五世・日淳上人は宗現に則り、松本日仁能化を妙信講の指導教師に任命された。
したがって妙信講は妙縁寺の所属となつたわけであります。
この松本尊能化という方は、大へん正直で温厚なお方、そして律儀であられたから、宗門の規則は固くこれを守るというお人だったですね。
また戦前から戦中にかけて宗門機関紙「大日蓮」の発行・編集などの重責を担われ、やがて宗門の長老として能化に昇進したのです。能化というのは、貰首に次ぐ高い位です。
この松本尊能化は、宗門の中で際立って強き信心に立つ妙信講を、心から慈愛して下さった。しかし妙信講が御遺命守護の御奉公に立つや、妙信講の指導教師として宗門との板挟みになり、非常に苦しい立場に立たれた。
心では妙信講が正しいことを知りながらも、指導教師・住職としては宗門の命令に従わなければいけない。その宗門は学会の言いなりになって動いているというわけです。
学会は宗門の細井管長に圧力をかける。細井管長は松本住職を通して妙信講を抑えようとする。そこで松本能化に圧力がかかって、非常に苦しい立場にお立ちになったのです。 (略)
そして旧本部会館ができた昭和四十八年十二月、松本尊能化にお願いして「妙縁寺重宝」の脇書ある御本尊を、妙信講に授与して頂いた。それが現在の本部会館の御本尊様であります。このとき松本御能化は、自ら御入仏式を執り行って下さった。 (略)
妙信護は解散処分にも微動もしない。この妙信講を見て細井管長は憎み、何とかして潰そうと、全講員に手紙を出したり、さまざまなことをやった。もちろん背後でこれをやらせたのは、池田大作と学会の弁護団です。
彼等がまず考えたことは“本部会館の御本尊を取り上げれば潰れるだろう”と。そこでこのことを松本御能化にやらせようとしたのです。何度もこれを強要する細井管長に対し、松本尊能化はこう云われた。
「これだけは、人間としての信義の上から、また信仰の上からも、私にはできません。いっそ、指導教師を解任して頂きたい」と。 (略)
すると細井管長は本山に松本能化を呼びつけ、さらに無理難題をふっかけてきた。昭和四十九年十一月十五日のことです。なんと
「妙縁寺に住職代務者を置き、その代務者に妙信講の処理を任せ、あんたは絶対に妙信講員に会ってはならぬ、一切関係を断て」 と強圧的に命令をしてきた。これは事実上、隠居をさせるということです。
そして住職代理には、学会の肝入りの浜中和道という悪僧を選んできた、これはもう否も応もない、絶対命令だった。ですから、返事を渋る松本尊能化を宗務院の一室に閉じ込め、細井管長が退席したあとは阿部信雄総監代務者(現・阿部日顕管長)が、「承知の印を押すまでは絶対に帰さない」と、一日中責めたてたのです。
このとき松本御能化はすでに八十三歳の御老齢、体も弱っておられた。阿部総監代行から「これは猊下の命令だ、承知しろ、承知しろ」と押し問答、監禁状態で責められ、疲労困憊のあげく、ついに判を押してしまったのです。
そして深夜、妙縁寺に戻ってこられた。疲れ切ったお声で私に電話を下さった。私はすぐ妙縁寺に駆けつけた。深夜、零時三十分頃でした。
尊能化はその日の経緯を詳しく話して下さった。そして「判を押すまでは絶対に帰さないといわれて、もう疲れ切って、頭が朦朧としたまま、つい判を押してしまった」と、力なく云われた。そのお顔は疲労で黒ずみ、なんとも痛々しいお姿でした。
それから約二時間、私は一念こめてお話し申し上げた。今回の宗門の処置がいかに理不尽で卑劣であるか、またその目的とするところがどこにあるかということを、よくよく申し上げ、最後に「このような狂気の命令には従うことなく、どうか御僧侶として、大聖人様の御遺命を守る決意にお立ちあそばしませ」と強く申し上げた。
ついに松本尊能化は、身を捨てる決意をして下さった。すると、それまで土気色だった御能化のお顔に血の気がさし、頬が少年のように桜色に輝いたこと、私は今でも忘れません。
そして私に云われた。「もしこのまま何もせずに死んだら、本当に大聖人様に申しわけない。残るわずかな余生は大聖人に捧げたい」
かくて尊能師は夜が明けるのを待って、本山に電報を打たれた。その文面は「住職代務者の件はお断りいたします」と。
その翌々日、松本御能化に住職罷免の処分が下った。そして同時に、新住職・副住職が送り込まれ、学会弁護士も四人ついてきた。
その弁護士どもは、松本尊能化の部屋にドヤドヤと入り込んできて、こう脅した。「このままいけば住職罷免だけでは済まない。あなたは擯斥処分(宗門追放)になります。だから早く妙信講と縁を切れ」と。
すると、あのおとなしい松本御能化が、毅然として四人の弁護士に云われた。「私はあと生きても一年くらいと思っている。このわずかな命を、大聖人様に捧げる決意をしているから、もう何も怖くないのだ」と。さすがの弁護士も、みな黙ってしまった。
またこの日、妙縁寺の総代で法華講連合会の首脳でもある佐藤悦三郎という男が、松本御能化を説得するためにやって来た。「早く妙信講と手を切って猊下にお詫びをするように」と。
この佐藤に対し御能化はこう云われた。「在家のあなた方には教義のことはわからないかもしれないが、どうしても国立戒壇が正しいのです。いま妙信講が命がけでやっている御奉公こそ、本来ならば自分たち僧侶がやらなければならないことなんです」と諭された。佐藤悦三郎は驚き、血相を変えて帰っていった。
そして昭和四十九年十二月二十五日、松本尊能師に、ついに宗門追放という残酷な処分が下されたのであります。八十三歳の老僧、そして終始一貫忠実に正宗僧侶として御奉公されてきたお方を、妙信講についたと言って、宗門追放にしたのです。私はこのことを忘れない。(略)
この擯斥処分から御逝去までの二年半、松本尊能師は、もう誰に憚ることもなく、顕正会と全く一体であられた。そのお心は、将来、広宣流布に御奉公する顕正会の前進を、間もなく命終わる自分として、何としても助けたい、守ってあげたいとの、ご慈愛だけでした。
ですから、御自分が所蔵しておられた宗門関係の大事な書籍も、すべて私に下さった。「年老いた自分が持っていても役に立たないから」とおっしゃって、すべて下さった。その膨大なる書籍の中には、大石寺所蔵の御書の御真蹟写真集もあった。(略)
さらに尊能化は、御臨終が近くなつてから私を病室に呼ばれた。枕元には新聞紙にくるまれた大きな包みがあった。それを私に下さって、尊能化は云われた。「浅井さん、これを広宣流布に使って下さい」。それは驚くほど多額のお金でした。死を前にして、もうすべてを顕正会に託されるというお姿でした。私はただ頭を下げ、その貴重な広宣流布の資金を拝受いたしました。
この松本尊能師が、最も心配され、心を砕いて下さったのが、御本尊様のことでありました。 「顕正会が将来広宣流布に戦うのに、御本尊様がなければ困るでしょう」と常に云っておられた。私も「そのとおりです」と、強くお願い申し上げた。ここに、松本尊能化は、妙縁寺に所蔵するところの歴代上人の御直筆御本尊七幅、それから日寛上人の御形木御本尊、並びに日布上人の御形木御本尊を多数用意して、私に託して下さったのであります。
この松本尊能化の御慈愛あればこそ、いま顕正会は何の憂いもなく、一国広宣流布の戦いが起こせるのであります。(略)そしてこの松本尊能師の不思議なご慈愛も、ひとえに大聖人様の御守護以外にはないと、私は伏して拝しております。(略)
願くば、学会とか、宗門とか、身延とか、正信会とかのケチなものではなく、早く一国の評論家が、権威あるマスコミが、国立戒壇について、顕正会について、悪口するようになってほしい。その時こそ、広宣流布は直前であります。まだまだ今は悪口が小さい。
もう顕正会以外に、誰人が広宣流布・国立戒壇建立への御奉公をする者があるでありましょうか。いよいよ大規模に広宣流布を進めていきたい。全顕正会員一結して、なんとしても他国侵逼の起こるその時までに一千万を成し遂げ、大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
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